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風は吹く

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CODA (コーダ): Child   Of   Deaf   Adult とは、   耳の聞こえない親の元に生まれたヒアリングの子供たち。 彼らは、デフ ( ろう者)、ヒアリング ( 聴者)、 どちらの世界にも属せず孤独のうちにいる。 これは再放送された某番組のリード文要約。 東北大地震で聴覚障害者の死亡率は   健常者を含めた全体の死亡率の 2 倍なのだそう。 私は友人になろうとしていたろう者の女性を喪った。 そう、色々な障害があり、障害を持つことは大きなハンディ負う。 冒頭のドキュメントような二次障害(?)は、様々な状況に見られるもの。 ろうの子供を持つ親の心も理解する必要をあるって思ったのだけれど、 ろう者の間にも、ろう者と聴者の間にも、 橋渡しをしようとする方たちとの間にもバリアがあるのね。 「第二の言語を持つことは第二の魂を持つことである」   カール大帝が語る「魂」は、 それら言語に育まれた文化一つひとつに命があると言っているのだと思う。   大切なことは、 「手話」が私たちろう者が自らの道を切り拓いてきた 「生きる力」そのものであり、「命」であることです。 -全日本ろうあ連盟-   ろう者にとって「手話とは生きる力であり命である」との言葉は、 カール大帝の「魂」を裏付けるリアルな現実だと思う。 ろう者とその家族、そして健聴の私たちの間にある空気。 すこしさみしく感じるけれど、   どんな社会も様々な問題を抱えているものだ。 それらを知ったかぶりで声高に話す必要もないと思っていて ここでは、素敵なニュースを紹介したい^^ v 世界で一番新しい言語として、ニカラグア手話が認知されていた事だ。 1970 ~ 1980 年に自然に発生したニカラグア手話も日本手話と同じ歴史を歩み、 その間ろう者の子供達の間だけで交わされながら、子供たちの力で文法化され、 手話を確固たる言語として成立させていたと記されていた。 子供たちの素朴な願い(みんなと話がしたい)が言語を生んだのだと思う。 きっと、全ての言語のはじまりは、 他者とコミュニケーションが取りたいという、 素朴な思いから生まれたのに違いないと思う。

sour grapes

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近頃、「どうしちゃったのかな?」と思うことも多く。 子供じゃないのだし、人間をやっていること自体、 理想ばかり追いかけていられないのも現実だ。 いろいろと、人生のイベントは、全ての人に平等に巡る。 やや愚痴も出てしまうほどに草臥れていたようで^^ 弱気の実も収穫を待たず、ボロボロこぼれ始めていた。 とばっちりを受けた人もいたりしたかな。 久しぶりのsour grapes(負け惜しみ)に忖度だ。   <strong>酸っぱい葡萄</strong>   高い木に、美味しそうに実るブドウを見つけたキツネ。   懸命に跳び上がって取ろうとするのだけど、   ブドウは高い所にあって届かない。   なんど跳んでも取れないものだから、キツネは諦めた。   「きっとブドウは酸っぱいに違いない」と、理屈を付け、   こころの平静をコントロールし、その場を去った。 フロイトは、これを『防衛機制』というのだけれど…。 いろんな理由をいっぱいくっつけて納得する。 そうすることで、負け惜しみに終止符を打つ… 気が付けば、そんな『防衛機制』が重なって、 負け惜しみをなだめる言葉も、使い果たしていたようだ。 わたしも疲れることもあるのだと、 自分の人間ぽさに感心したりする^^ けれど「じゃあどうするの」と聞かれたら、 「為せば成る…」でもないし、 「なるようになるさ…」ってことでもない。 きっと全て、「なるようにしかならない…」。 独り、落ち込んだこころをなだめて、冬眠前の鰻を贅沢する。 「ほら、一緒にくれば食べられたのに」と 誘いに応じなかった友にメールを送る。 このメールも負け惜しみの防衛機制かも知れない…? そして、防衛機制には予期しない出費もあるらしい。 予期しない出費は持ち合わせも無いから、カードで精算する。 お財布には、「痛い」という感情があった気がするのだけど、 比べてキャッシュレスは、 リアルに痛いこころが伝わらない。 人と人の間で痛みも伝わりにくくなった、 人間●●レスの時代かな…^^ 防衛機制も忖度の方法を考える必要あるのかな 。

鐘楼のパトリオティズム

地球温暖化が真実か分からないけれど、 この夏は、数回のシャワーが日課だった。 少し秋を感じはじめると湯船につかりたい気分だけど…、 ぶつぶつ独り言を言いながら、お湯を張った。 『ふ~ぅ…、やっぱり日本人かな~』 肩までお湯につかるとなんだか満足した。 2040年ごろにはこのお湯はどのエネルギーで沸くのかな? 自然頼みだけでは不安定だし地政学があるし、 この頃の、景観無視の太陽光パネル設置位置は美しくない。 きっとメンテも滞って、残骸が至る所で野放しになるだろうな~。 日本は土地狭いからせめて屋上とか屋根にしてほしい。 人口過疎という、進行性の病を診断され、 高齢者世帯が半数を占める地域なのに、 重箱の隅をつつく資本の食指は伸びてくるし。 豊かな高齢者が増えたのかも。 一つ筋を違えて近所には中国人のご夫婦が住んでいるし、 筋向いの裏にはアメリカ人のご主人と暮らす日本女性がいる。 隣の番地には一人暮らしのドイツ女性も住んでいて、 という私も父方にイタリアの血が流れている。 (嘘です^^) 名前を日本名にしている方が多く分かりにくいのだけれど、 韓国や朝鮮系の方は他国と比べるとかなり多い(日本全体?)と思う。 けれど、生活習慣や価値観の違いは少々あっても何の問題も起きていない。 鈍い私は取り立てて意識したことなく暮らしてきた、 それぞれの国の思惑が背後に絡むことを意識するまでは。 いつごろか市場の開放(欲望を背景に)に突き進み、 グローバリズムが実しやかに正当化された。 しかしそれぞれの民族がそれぞれ拠り所にした地域名産の宗教は グローバリズムのなかでの救世主にはなりえないことには気付かない。 自分たち強く繋いできたと思い込んでいる民族主義は好きではない。 「民族の伝統文化を守ろう」と言われると、 一言も反論できないくらい正論だけど民族ってなんだろう。 日本だって羽織はかまを捨て、刀も捨て、髪も断髪、 言葉は生きているのだと言ってね、 60、70歳の高齢者も、ギャル(孫の世代)と同じ言葉を使うし、 省略語を使わないと時代遅れみたいな目で見られたりするし、 けれど言葉を省略するって結構昔から日本の文化にあるんだね。 他国でも同じ現象があるようだし、 大和文化もアイヌ文化も捨てられたものがあって、 今でいえば「女

ユタとベル

手話を学び半年。 先週末、ろう劇団による「ユタとふしぎな仲間たち」を観劇した。 ろう者と健聴者に向けて創作されるゆえの困難さを 少しずつ改良しながら試行錯誤の舞台回しだった。 そこには彼らが社会から差別され、 隔離された歴史を背負っていたことなど、いささかも感じさせるものでなく ユタと仲間たちのエネルギーは舞台からあふれ出すほど逞しかった。 半年間、まあまあ続いたかなの入門編^^v その入門編の終わりに観劇した舞台だった。 あふれるユタ達(ろう者)の逞しさは、どこから生まれるのか気になった…。 サリヴァンにヘレン・ケラーを会わせたのが 電話を発明したグラハム・ベルだと講義ではじめて知ったのだけど、 それだけなら、さほどユタ達の逞しさも気に留めることも無かったと思う。 何故気に留めたかと言えば、 講義中、講師のグラハム・ベルに対する嫌悪を感じたからだった。 一言二言の話の中に、鈍い私にも引っ掛かるものがあった。 もちろん内情を知らないままで話を受け入れるつもりはないし、 どんな賢者であっても、人間は勘違いをするものだし、 …と思い、少しだけ調べてみることにした。 ベル自身は障害の母と妻を持ち、 父は人間の発するあらゆる声を一連の記号に体系化した 「視話法」の考案者。 ただし、視話法は現在使われていない。 ベルは父と共にろう者の教育や研究に心血を注いでいて その研究の副産物に電話が考案されたらしい。 そして講師に感じた嫌悪の要因は、多分、 1880年、 『第2回国際ろう教育国際会議(ミラノ会議)』において採択された 「手話を禁じ、口話を奨励(口話は優れ、手話は劣る)」 とした決議に端を発するもののようだ。 この決議が聴覚障害/聾者とその家族の、言語と尊厳を傷つけ、 多くの悲劇を生んだということらしい。 日本のろう者もだが、世界的に彼らの人権はかなり差別的で悲惨な状況下にあった。 当時、ベルは悪評高いミラノ決議の「手話を否定、口話を奨励」を支持し、 大きく関与していた。 そうして、ろう者の歴史に伝え継がれたベルの教育方針は、 ろう者とその家族の心へ、深く嫌悪の根を張っていったのだろう。 ユタ達の悲劇が手当されるのは、 ミラノ決議が誤りであると訂正されるまでに、 130年と

自由・民主主義の終焉に

1960年代後半は、公害や環境破壊の問題が深刻化した時代だ。 豊かさを求めて若い世代は都会へ移動、定住。 企業がサービスを拡充していくことで、 家庭を築く必然性は低下していったのだろう。 女性の時代という言葉のお墨付きは 個食の時代を生み、家庭の機能低下、 生活文化の喪失という時を刻んできた。 この小さな田舎町も、 独身貴族の増大に比例してコンビニや便利屋が増えた。 企業活動の基本として、 際限のない人々のニーズやウオンツは事業化される。 経済とは社会的な分業の枠組みなのだから、 家事の多くが外部へ分業されるようになっていったのも 必然なんだろう。 お金があればすべてが買える。 空腹も、介護も、あらゆるジャンルの飢餓状態を満たせるのだ。 お金に換算されないと思い、高を括っていたあなた、 そう、あなたの「おふくろの味」も今はコンビニの目玉商品なのだ^^v 「三つ子の魂百まで」は真実かもしれない、 けれど家族というものに幻想は持っことはもう古い。 何が良いのか何が悪いのかに、人類すべてに通じる共通項はなく、 多様性の時代なのだ。 最低、人が守らなければならない法規制を逸脱しない限りにおいて、 全ては自由。 大衆の多くは自由に豊かさを求め、 文化は大きく変貌を遂げてきた。 きっとどこかに置き去りにされたというか、 追いついてゆけないというのか、 民族や宗教の権利や自由も枠をはみ出て 郷に入れば郷に従えではなく、 そこに住む権利を要求すれば鬱憤が噴出する。 白人が移民の数の勢いに決起するのも理解できるけれど…。 それが、世界を悩ますポピリズムの台頭を促したのだろうな。 さて自由・民主主義の終盤は足音たかく闊歩するようだ。

鄙にまれ

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とくれば、続く語彙は「美人」かな? 「鄙にまれな美人」 知性派を気取る男たちのエゴイズム(?) そう、少しばかり、色々な意味でそう思っていた。 第一、 「田舎で美人にはお目に掛かれない」 そんな通説があるわけないのだし、 嘘か誠か分からないけれど わたしは、そう思ってはいない^^ けれど、 水は低きに流れ、人は易きに流れるのは物の道理のようで、 田舎に限らず、美人に象徴される物事にお目に掛かる事も少なくなって、 そうあってほしいと期待もすることなく、 全てそんなものだと諦めが当たり前に暮らしてきた。 それでも、すこし疲れていたのかな、 確かに人間社会は不合理であるけれど、 「稀なこと」というものに一つでいい、 出会えたらと…、 このごろささやかに思う。 喩として、 「鄙にまれな美人」かな^^ 珈琲とチーズで朝が定番。 最近は「お豆腐で出来たチーズ」がテーブルにのぼる。 コーヒーに良く似合う。 美味しいと思うから 食べてみてね! 上の人参は食べられません^^

お財布をはたいて傘を買いに行く

大切なものは目では見えないよ、心で探さないとね。 現実、人間の目で見ることのできる世界には限界があって 次元を超えて多次元をみることもできないのだけれど 人のこころも同じだ。 見ることができない世界ってかなり多い。      確かにね君が言うように「心で探さなくちゃ。。。」だけど、 心の目が大切だなんて、今の自由・民主主義の時代は ナーバスなことなど言っていられないらしい。 政治経済に疎い私のレベルでも 最近の世界はどこに行こうとしているのか疑問に思うことが多い。 経済は責任の伴わない自由と資本主義のなかで 蠢く怪物みたいなものを感じるしね。 過去記事で書いたことがダブルのだけど。 『欲望の資本主義特別編―欲望の貨幣論』を見た。 50分(?)×2本だから、疲れちゃって 右から左へとほとんどが抜けていっちゃった。 けれどその中から 言葉を幾つかピックアップしてみた。 ●「人の欲望は非効率的で贅沢を思考する」ということ。 資本システムの中では ●「所有の量に比例して欲望は膨張する」 ●「満足しない欲望は蓄積を生む」 ●「蓄積と自由は格差を生んだ」てなこと言っていたような。 スミスの「神の手」も幻覚だし。 もち私を含めて 大衆は自身のコントロールさえGAFA頼みなのは確かだしね。 大衆が委縮して、個人の価値感を 見失ていったのとGAFAの巨大化は反比例だ。 もちろん、大衆は委縮したなんて思ってないし、 多分自分がヒーロー&ヒロインでいられるSNSで 自分自身は○○ファーストで特別だって感覚に陥ってるよね、 自身の目的すら自分で決められなくなったのも コントロールされている事すら気付かないのも 逞しい大衆の常なんだろうな。 でも、もうどうすることも出来やしない。 これでフェイスブックの仮想通貨「Libra」が現実になって 新しい金融界を創出し支配する時代には 数パーセントの権力者(ハラリ氏のいうホモ・ゼウスかな?)に 世界経済が支配されるんだろうな。 大衆がGAFAを熱狂的に支えているんだからしかたないかも。 それもほとんどの大衆は気付くことも無いままだからね…。 イイネ集めて高揚し、短い命の商機も夢

その理由

「人間は死ぬことが出来るから」がその理由だった。 『人造人間の“私”』  世界のドキュメント 出かける準備をしながらのながらテレビに加え、 部分的な視聴だから番組の全体は見えていなかったのだけれど^^ 聴覚は音を受け入れる態勢にない状態で 「ロボットと人間は違うか?」AIロボットが少年に質問する声を拾った。 少年は考える間をおいて「違う」と答える。 この微妙な「間」に、少年は何を考えたのだろうか? 「人間は100歳まで生きられる」と少年が言うと、 「ロボットはスイッチを切るまで永遠に生きられる」とAIロボットが答える。 映画 『アンドリューNDR114』 がリアルっぽく甦る。 そんなやり取りの後、 「ロボットと人間どちらがいい?」AIロボットは聞いたと思う。 アンドリューは人間の女性と恋に落ち結婚した…のだけれど、 少年は「人間がいい」、意外にもあっさりと答えた。 けれど驚いたのは、「人間がいい」の言葉に衝いて出た       その理由だった。   「人間は死ぬことが出来るから」 注視したモニターの映像は一瞬に過ぎ、 少年がどんな表情でその言葉を口にしたか認識できなくて、 多分、無表情だっただろうな…。 少年の知的レベルはかなり高いかもしれない… 同じ年齢を想定したら、私なんかじゃ、 人間を選んだ理由にこの言葉が飛び出すなんてありえない。 思えば少年の年齢よりずっと後のことだ、 「人間は死ぬ」ということを意識して 手にした最初の書籍が 『高瀬舟』 だった。 鴎外は「高瀬舟縁起」の中で、「高瀬舟」のテーマは、 安楽死であると明言していた。 あれからどれくらい月日が流れたかな。 どこへ行くのでもなく車を走らせ、 こうして生きていることも不思議なほど くたびれていた精神状態のとき、 偶然ラジオから流れてきたのは    私は生きようとする命に囲まれた   生きようとする一つの命である            Schweitzer 私はテレビを切って外に出た。 カギを掛け忘れそうになる…(*´v゚*)ゞ、

白い鳥と黒い鳥                

きっと空梅雨ね、そう思っていたのですが、 六月も終盤になり、遅れて栗花落(ついり)です。 今日、スーパーのレジを済ませていると レジ横で少年(小学校の上級?)が私をじっと見ているのです。 恋人にするには…だしな、って思いながらにっこり微笑むと 恥ずかしそうに微笑み返してきました^^ 子供なのになんて素敵な笑顔をするのかなってね、 そう、いわゆるとても美しい少年です。 キャッシャーの方に支払いをしようと振り向くと、 彼女も私と少年の笑顔だけのコミュニケーションに 顔をほころばせているのです。 だからと言ってお買い物は安くなりませんでしたけれど(*^ー^*) ふと思い出したのが『白い鳥と黒い鳥のお話』です。 僕は子供のころ、そう教えられてきたんだ。 僕の生まれた国(アフリカ)のお話なのだけど…、 そう前置きをして彼は話し始めました。 人の心には小さな白い巣と黒い巣があってね 白い巣には白い鳥が棲んでいて もう一つの黒い巣には黒い鳥が棲んでいるんだ。 例えば僕が、相手を騙してやろうとしたら 僕の心のなかの黒い巣から黒い鳥が飛び立っていく。 もしも相手の黒い巣が空いていたら 僕の黒い鳥は相手の心の中の黒い巣に入り込む。 だけど、相手が誰も騙そうと思っていなければ 相手の心の黒い鳥の巣は塞がっているから 僕の黒い鳥は僕の心の黒い巣に帰ってくるしかないんだ。 だから僕の相手を騙してやろうとする心(黒い鳥)は 相手に何の弊害も与えることができないということなんだ。 反対にね、僕が人にやさしくしてあげようとする時は 僕の白い巣から白い鳥が飛んで行く。 もしもその人が、誰かにやさしくしていたらその人の白い巣の白い鳥は 誰かの白い巣へ飛んで行っているわけだから白い巣は空になっている。 だからね、僕のやさしさがその人の空いている白い巣を埋めてあげられる。 そうしたら、僕の空いた白い巣にも どこからかやさしい白い鳥が飛んできてくれるってこと。 やさしい白い鳥、きっと飛んでいたのですね^^

抹殺された伝承

どちらかと言えば少しどころではなく、至る所が折れている。 そうして何度目かの飛騨金山にふらっと出かけた。 一人通るのがやっとの細い路地も変わることなくある。 隠れるように残るベンガラの赤、 網代張りの戸袋に下見板張りの壁が美しい。 他人事のように言えば異論もあるだろうけれど地味な町。 たいした知識などなく、知ったかぶりを許してね…だけど^^ 『日本書紀』で、皇命に逆らう賊とされた両面宿儺の伝説がここに眠る。 『日本書紀』は 両面宿儺を、皇命に従わず、人民から略奪を楽しんでいる鬼人として 和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した、と語る。 けれど町の伝承資料には異伝があると記している。 その抹殺された異伝がささやく。 両面宿儺は出波平から金山の小山に飛来し、37日間大陀羅尼を唱え、 国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った…。 村人たちは、宿儺が飛来した山を鎮守山として観音堂を建て祭った。 歴史も文化もその多くは時の勝者のもの。 集客に精を出す観光文化のほとんどもそれら勝者の歴史を称え、 FB(SNS)が大衆を侵略するように地域にプライドも醸成するのだけれど…。 けれどこの町に残る宿儺の物語は 例えば明智の子孫がひっそりと首塚を守ったみたいに その成り立ち故に秘め事のように祭られたのかもしれない? そんなところが少し特異な様相をみせるから惹かれる。 秘密の道のようにある小山の段々をのぼり、観音堂を訪ねた。 どの様な今がこの観音堂に繋がっているかは分からないけれど、 今は覆いつくす夏草に守られて佇む。 ここに風に乗って飛来したのかと思うと、 何となくむせる風も心地よい^^ 実は、この町以外の旧飛騨街道沿いにも 皇命に逆らった賊(両面宿儺)の様々な伝承が残されている。 それらも『日本書紀』と異なるものが多く、 そこには抹殺された飛騨の歴史の謎があるのかもと、想像も膨らむ。 <font color="gray">『<strong>安吾の新日本地理 飛騨・高山の抹殺 ―中部の巻―</strong>』 坂口安吾の著</font> なんとなくおもしろい考察かも! さて、流行り病に折れたなにかがしも両面

男と女

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茶館で知らない人が声を掛けてきた。 残念だけど…、女性だった(*´v゚*)ゞ 月に一度、仕事の合間に町までお茶をしに来るのだそう。 「私ミーハーなの、後藤久美子が好きでマタ・ハリが好きで、ゾルゲが好きなの」 確かにミーハーと言うか、脈絡がないところがミーハーと言うか、 そうじゃなくて、ミーハーどころか個性的。 そんな彼女の話に頷きながら、私の脳みそはその場を飛んでいた。 あれはちょい前のこと、、、 某TV局のドキュメンタリー。 さほど興味もなく見るつもりはなかったのだけれど 何気にTVのスイッチを入れたとき 偶然流れてきた言葉に前頭前野のスイッチが入った。 「彼女は男と女の友情が必要な年代になっていた…」 男と女の友情が必要な年代って何を意味するの? 何だかとても引っ掛かる言葉だ。 そのドキュメンタリー、主人公は美貌のスパイ、マタ・ハリ。 引っ掛かった言葉を個人的に理解すれば <font color="gray">  時は残酷だ、美貌の衰えに従って女を卒業し、   男へのアプローチを変えなければ男友達すら(この“すら”って気になる助詞だ~)失う。   マタ・ハリは、年を重ねた女の惨めさギリギリの年齢になっていた…。 </font> ということらしい。 伝記研究者(?)の弁は追い打ちをかける。   <font color="gray">彼女はまだ若いと言われる年代で死んでよかったのだ。   死刑が決行された時、マタ・ハリが60歳になっていたとしたら   女のプライド惨めに砕かれ、まして後世に語られることなどもなかった。</font> 言ってくれるじゃない。 そりゃ高い比率で、男は若い女しか興味ないのも事実かもだけど。 当時、若いマタ・ハリを持て囃し遊んだ男たち、 美貌の時を過ぎようとしている彼女の苦境に手を差し伸べないなんて…。 マタ・ハリ自身、美貌の衰えを受け入れることが困難だったのだろうとも思うけれど。 とは言え、一度は愛した(仮に遊びでも)女一人さえ 誰も引き受けなかったことに、男の無情と度量の狭さを感じるのは私だけだろうか…(? そんな男しか見極められなかった

恋の辻占

ここに居を移して1~2年頃でした。 法被姿の地下足袋という出で立ちで リヤカーを引くお豆腐屋さんを見かけたことがあります。 一度っきりです^^ 先週の土曜のお昼のこと こころもち遠慮気味なお豆腐屋さんの笛が聞こえました。 もしや…、と思ったのですが姿はありませんでした。 お味噌汁が朝餉のメニューに登る回数も減り、 お豆腐はマーケットで買うものになったこの頃、 この町においても引き売りの音は珍しくなりました。 多くの地方都市においての開発がそうであったように、 ドーナツ現象に拡散された暮らしの機能はやがてほころびを見せ、 20~30年の時の流れに日中の騒めきが影を潜めても、 今だ共働きの町はシャッター通りさながらです。 一度、「ロバのパン屋さん」の音楽が 右から左へ通り過ぎていきました。 豊かさって何だろと、ふと思うのです。 走馬灯に思い出すのは子供の頃。 竿にスイカ、金魚に紙芝居などなど、 色々な音が聞こえた気がします。 中でもお豆腐屋さんの辻売りの声は 早朝にあってそれは一日の始まり、 夕暮れにあってそれは一日の終わり。 そこにあったのは家族の暮らしでした。 そう言えばお正月限定の おみくじ入りの辻占(つじうら)と言うお菓子、 子供の頃おみやげによく頂きました。 今は届く当てもなく、私も買いそびれたままですが 辻占とはその昔、夕方の辻に立ち占うというものらしく 夕占(ゆうけ)ともいっていたようです。 辻占そのものはかなり古い歴史を持ち 縁起を担いだり、恋の成就を楽しむ粋な文化だったのですね。 江戸時代には、おみくじを引き売りする姿に引き継がれ、 明治・大正時代には「淡路島通う千鳥の恋の辻うら」と 幼い掛け声も聞かれたようです。 目まぐるしく変貌した歴史の片隅に 喜怒哀楽を生きた人々の涙や笑は 防虫剤 の臭い が沁みる博物館に鎮座し、 「恋の辻占」の御籤を楽しんだ私の時間は 目覚めることのない記憶をねぐらにしたようです。

プレゼントに選んだ二冊の本

いつごろの事だったのか 「大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」と聞いたら 首を傾けて「うん、いいよ」と頷いた きっと、困り果てていただろう君へ (*^ ー ^*) お別れのプレゼントに選んだ二冊の本。   『 数学は世界を変える 』 リリアン・ R ・リーバー著 トーテム・ポールの最上階には 現代芸術家と純粋数学者が 屋根裏部屋をシェアーしながら住んでいるらしい。                     科学は非道徳的ではなく 私たちに哲学を与えてくれる。 数学は私たち人間が生きていく上で 良きバイブルだっていっているようだけど… 宇宙科学の某 TV 番組で ダークマターを研究してる教授が言っていた。 「私たちの研究が今すぐ人類に有効かと言えば、そうではないでしょう。 しかしそれは、私たち人間が生きていくのに大切な哲学なのです」          考えれば 数学の世界と哲学の世界は、お友達として古い歴史があった。 だから…、頷ける^^ アメリカでは 1942 年に刊行されていた。 とても短くて詩的な言葉で書いてあるから 数学嫌いでもさらっと読めてしまう^^    だからと言う訳じゃないけれど    今日の朝ごぱんはさらっさらっとお茶漬け^^ 『 フラットランド 多次元の冒険 』 エドウィン・アボット・アボット著 今住んでいるこの空間のあれこれも 私たちの頭の中では立体の筈なのだけど 人間の認知は再構築されて意識されるから厄介? 君がパステルで描いた世界も、驚きのキュビズムだったね^^   池の鯉が横なって泳いだり 楕円に見えてるはずのテーブルも あれは円テーブルだと君の頭は認知して、再構築して描いてた。 本来、イメージが再構築される時 視覚の恒常性が邪魔…、じゃなくて働いてくれているから 私たちは日常活動を維持できているのだけどね。 そして、やがて君の伸びやかな画は 恒常性を「知」として受け入れていくだろう。 ちょっぴり残念だけど。。。 だからというのでもないけれど 君の中に棲んでいて、居眠りを始めたピカソやブ

西洋菩提樹とオーク

久し振りだねTV。 意図することなくチャンネルを選んだ。 お互い一人だけど、長生きしましょ… と語るゲストへ、司会者は答えた。 「…一人で長生きはさみしいものですよ」だった。 数日前のことだ。 キッチンに立ち、 スパゲティーを茹でながら電話をしていた。 …なのに、つけっ放しのTVの会話に聴き耳が立つ。 これって神業だ…、と思いながら。 (ノ∀`)・゚・。神業なんてことないよね…。 カクテルパーティー効果かな、きっとね。 ず~っと長く、気に掛かることだったのかも。 あの時、わたしは父に言った。 「ママの分まで長生きしてね」 その後いろいろな時間を過ごし、 時おり気になって思い出す言葉だった。 同じ言葉をわたしも受け取ったんだよね。 「彼の分まで、頑張って長生きしなくちゃね」 「○○さんの分まで長生きしてください」 同じような筋書きのドラマのラストシーン、 メインキャストのセリフにも定番みたいに聞いたっけ。 一人ひとり、いなくなることの意味は、わたしに分からない。 けれど、建ち並ぶ墓碑の下、 冷たく寂しい場所に命がねむるとは思っていないし、 あなたの命を代わって生きようなんて思いもない。 一緒に丘に立つ二本の木でありたいという思いが、 カクテルパーティー効果をもたらしたのかもしれない。 プリュギュアの丘の沼のほとりに立つ 大きな菩提樹と樫の木。 私達は 老いました。 なんの望みもありません。 けれどこの世を去る時、できる事なら手を携え、 二人一緒であれたら、こんなうれしい事はありません。                    ΜΥΘΟΛΟΓΊΑ ΕΛΛΗΝΙΚΉ 世界が二分され、 グローバル化も深い傷を負ったかもって時代に 紀元前10~15世紀(?をさかのぼって わたしは何を考えているのだろう。。。 夫婦は他人、いろいろあるものだしね。 だけど、多くの人が辿り着きたいところ。 そんな本音が語られていると思いたい^^

誰そ彼時

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長電話をしていた。  陽もすこしづつ長くなりはじめたからでもないのに たそかれどき(誰そ彼時)の電話は長くなるらしい。 ねえ、君は知っていたのだろうか? ももいろの金平糖の花が満開になって そこにとっておきの時間が眠るからって 焦って時間を使っていたころが一番輝いていたってこと。 けれど毎年まいとし、誰かを待たせて金平糖の花が咲くものだから わたしはとても思い違いをしていたようだ。 外はたそかれどきでその続きを覚えちゃいないけれど、 もうじき会いたいと、 …蛍も飛ぶ。

好き家

方丈は1丈四方の面積を一単位とし一方丈は四畳半程度。 長明が要職を捨て京都の洛北大原山に隠棲。 その後、日野の外山に結んだのが一方丈の庵。 庵の様子は 方丈の広さに、高さは七尺、約2mほど 分解すれば大八車に積める量になり、移動可能。 東に三尺あまりの庇、 南には竹のスノコが敷かれ、西には花や仏具をのせる棚。 北には障子をへだてて阿弥陀の絵が掛けられ 東の際にワラビのほどろ(穂の伸びてほどけたもの)を敷いて床とし。 西南に竹の吊棚、皮籠を置いて書き物の収納場所を設け その傍らに、琴と琵琶がたてかけてあった。 この庵、数奇屋の意匠の始まりとも言われる。 そこに、無常「束の間のもの」を重ねるらしい。 数寄屋(好き家)は個人の好き(趣味)の欲求に創造された 素朴な素材と空間だった。 その後、茶室(わび茶)の空間で、 利休が完成させたと言われている…、らしいけれど (政治手腕はかなりの人物だったらしい) 岡倉天心著「茶の本」 岡倉天心は「茶の本」に    茶室(数寄屋=すきや)は単なる小家で    それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋(ぼうおく)に過ぎない。    その建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。 と、解説。 しかし、思わせるようにできているだけで実体は清貧ではない。 その空間はかなり瀟洒で格調高いもののようだ。    これはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで    立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって    細工が施されているということを忘れてはならない。 つまり、     よい茶室は普通の邸宅以上に費用がかかる というのだ。 暗示されようとされまいと、そんな豪華な茶室に 茅屋や清貧とイコールなど見つけられやしないんじゃないのかな…? 続けて     その細工はもちろんその材料の選択に多大の注意と綿密を要するから。    実際茶人に用いられる大工は、職人の中でも特殊な、非常に立派な部類を成している。    彼らの仕事は漆器家具匠の仕事にも劣らぬ精巧なものであるから。 しかし…、    禅は仏教の有為転変(ういてんぺん)の説と    精神が物質を支配すべきであるというその要求によって    家は身体を入れるだけの仮りの宿であり    その身とてもただ荒野にたてた仮りの小屋なのだ。    まわり

なんだかんだと言っても

誰が正しい未来を予測し、 誰が現状を打開する方法を提示できるのか、 先も見えないから時代だから仕方がないかなを言い訳に^^ 纏りもなくダラダラと記事をUP。 オーストラリアのニュース 「某国の買い占めにより、粉ミルクの争奪戦が続いている」 幾度か同じ現象があったような… 「何とかして」と言っても企業から回答がないらしい。 住む権利、利用する権利、購入する権利等々 全てを要求するのはそこで生まれ育った人ではなく、資金力のよう。 人権問題や債務のワナを外野で騒いでも ハリウッドも某国の顔色を窺って映画が制作される時代だし。 民族や宗教や個々の主義主張も枠を大きく逸脱して 互いの容量を超えた堪忍袋は、ひび割れが顕著。 そこからそれぞれの憂鬱が噴出しているみたいだ。 とある国に大人の対応を呼びかけても そもそも今なのか昔からそんな芽があったのかは分からないが 隣国のヤンチャ振りも子供っぽいのだけれど 我が国も可愛い漫画文化で大人になれない気質だから 何を言っても空振り三振で迫力もない。 と思いながら どこに大人の大衆を軸に持つ国があるのかと思えば 見当たらないのも真実だと言う気がする。 民主主義って大人の大衆を要求してたのじゃないの? オーストラリアのミルク騒動に戻れば 某国は自国の製品に不信感を持っているということなのだけど 考えればオーストラリア製だと思い某国が購入している原料そのものは 某国からの輸入なのかもしれない…(?、てことは無いか^^ しかしハチミツの有数な生産国であるスペイン、 蜜瓶の中身はかなり高い比率で某国産だしね。 某国の安い価格に押され「せめてパーセントを明記してくれ」と スペインの養蜂業者は悲鳴を上げているくらいだ。 もちろん、儲け主義の産業界と国は明記するのに消極的のようだ。 フランスの名産ウインナーだって あの自慢のパリパリ皮はほとんどが某国からの輸入。 フランスの皮を提供していた生産者は閉店。 もちろんこちらも儲け主義の産業界と国は明記するのに消極的。 数十年前からはじまっていたのだけれど、 ブランド物のバッグや靴も、あなた自意識をくすぐるドレスも 頭からつま先まで、「made in 某国」 すでに多くのブランドの本体はユダヤ資本、アラ