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白い鳥と黒い鳥                

きっと空梅雨ね、そう思っていたのですが、 六月も終盤になり、遅れて栗花落(ついり)です。 今日、スーパーのレジを済ませていると レジ横で少年(小学校の上級?)が私をじっと見ているのです。 恋人にするには…だしな、って思いながらにっこり微笑むと 恥ずかしそうに微笑み返してきました^^ 子供なのになんて素敵な笑顔をするのかなってね、 そう、いわゆるとても美しい少年です。 キャッシャーの方に支払いをしようと振り向くと、 彼女も私と少年の笑顔だけのコミュニケーションに 顔をほころばせているのです。 だからと言ってお買い物は安くなりませんでしたけれど(*^ー^*) ふと思い出したのが『白い鳥と黒い鳥のお話』です。 僕は子供のころ、そう教えられてきたんだ。 僕の生まれた国(アフリカ)のお話なのだけど…、 そう前置きをして彼は話し始めました。 人の心には小さな白い巣と黒い巣があってね 白い巣には白い鳥が棲んでいて もう一つの黒い巣には黒い鳥が棲んでいるんだ。 例えば僕が、相手を騙してやろうとしたら 僕の心のなかの黒い巣から黒い鳥が飛び立っていく。 もしも相手の黒い巣が空いていたら 僕の黒い鳥は相手の心の中の黒い巣に入り込む。 だけど、相手が誰も騙そうと思っていなければ 相手の心の黒い鳥の巣は塞がっているから 僕の黒い鳥は僕の心の黒い巣に帰ってくるしかないんだ。 だから僕の相手を騙してやろうとする心(黒い鳥)は 相手に何の弊害も与えることができないということなんだ。 反対にね、僕が人にやさしくしてあげようとする時は 僕の白い巣から白い鳥が飛んで行く。 もしもその人が、誰かにやさしくしていたらその人の白い巣の白い鳥は 誰かの白い巣へ飛んで行っているわけだから白い巣は空になっている。 だからね、僕のやさしさがその人の空いている白い巣を埋めてあげられる。 そうしたら、僕の空いた白い巣にも どこからかやさしい白い鳥が飛んできてくれるってこと。 やさしい白い鳥、きっと飛んでいたのですね^^

抹殺された伝承

どちらかと言えば少しどころではなく、至る所が折れている。 そうして何度目かの飛騨金山にふらっと出かけた。 一人通るのがやっとの細い路地も変わることなくある。 隠れるように残るベンガラの赤、 網代張りの戸袋に下見板張りの壁が美しい。 他人事のように言えば異論もあるだろうけれど地味な町。 たいした知識などなく、知ったかぶりを許してね…だけど^^ 『日本書紀』で、皇命に逆らう賊とされた両面宿儺の伝説がここに眠る。 『日本書紀』は 両面宿儺を、皇命に従わず、人民から略奪を楽しんでいる鬼人として 和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した、と語る。 けれど町の伝承資料には異伝があると記している。 その抹殺された異伝がささやく。 両面宿儺は出波平から金山の小山に飛来し、37日間大陀羅尼を唱え、 国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った…。 村人たちは、宿儺が飛来した山を鎮守山として観音堂を建て祭った。 歴史も文化もその多くは時の勝者のもの。 集客に精を出す観光文化のほとんどもそれら勝者の歴史を称え、 FB(SNS)が大衆を侵略するように地域にプライドも醸成するのだけれど…。 けれどこの町に残る宿儺の物語は 例えば明智の子孫がひっそりと首塚を守ったみたいに その成り立ち故に秘め事のように祭られたのかもしれない? そんなところが少し特異な様相をみせるから惹かれる。 秘密の道のようにある小山の段々をのぼり、観音堂を訪ねた。 どの様な今がこの観音堂に繋がっているかは分からないけれど、 今は覆いつくす夏草に守られて佇む。 ここに風に乗って飛来したのかと思うと、 何となくむせる風も心地よい^^ 実は、この町以外の旧飛騨街道沿いにも 皇命に逆らった賊(両面宿儺)の様々な伝承が残されている。 それらも『日本書紀』と異なるものが多く、 そこには抹殺された飛騨の歴史の謎があるのかもと、想像も膨らむ。 <font color="gray">『<strong>安吾の新日本地理 飛騨・高山の抹殺 ―中部の巻―</strong>』 坂口安吾の著</font> なんとなくおもしろい考察かも! さて、流行り病に折れたなにかがしも両面

男と女

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茶館で知らない人が声を掛けてきた。 残念だけど…、女性だった(*´v゚*)ゞ 月に一度、仕事の合間に町までお茶をしに来るのだそう。 「私ミーハーなの、後藤久美子が好きでマタ・ハリが好きで、ゾルゲが好きなの」 確かにミーハーと言うか、脈絡がないところがミーハーと言うか、 そうじゃなくて、ミーハーどころか個性的。 そんな彼女の話に頷きながら、私の脳みそはその場を飛んでいた。 あれはちょい前のこと、、、 某TV局のドキュメンタリー。 さほど興味もなく見るつもりはなかったのだけれど 何気にTVのスイッチを入れたとき 偶然流れてきた言葉に前頭前野のスイッチが入った。 「彼女は男と女の友情が必要な年代になっていた…」 男と女の友情が必要な年代って何を意味するの? 何だかとても引っ掛かる言葉だ。 そのドキュメンタリー、主人公は美貌のスパイ、マタ・ハリ。 引っ掛かった言葉を個人的に理解すれば <font color="gray">  時は残酷だ、美貌の衰えに従って女を卒業し、   男へのアプローチを変えなければ男友達すら(この“すら”って気になる助詞だ~)失う。   マタ・ハリは、年を重ねた女の惨めさギリギリの年齢になっていた…。 </font> ということらしい。 伝記研究者(?)の弁は追い打ちをかける。   <font color="gray">彼女はまだ若いと言われる年代で死んでよかったのだ。   死刑が決行された時、マタ・ハリが60歳になっていたとしたら   女のプライド惨めに砕かれ、まして後世に語られることなどもなかった。</font> 言ってくれるじゃない。 そりゃ高い比率で、男は若い女しか興味ないのも事実かもだけど。 当時、若いマタ・ハリを持て囃し遊んだ男たち、 美貌の時を過ぎようとしている彼女の苦境に手を差し伸べないなんて…。 マタ・ハリ自身、美貌の衰えを受け入れることが困難だったのだろうとも思うけれど。 とは言え、一度は愛した(仮に遊びでも)女一人さえ 誰も引き受けなかったことに、男の無情と度量の狭さを感じるのは私だけだろうか…(? そんな男しか見極められなかった