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後始末

わたしはそれを、虚ろな頭で読んだ。   「高瀬舟」   いつのころであったか。   これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟にのせられた。   名を喜助といった。・・・ 鴎外は「高瀬舟縁起」の中で、 「高瀬舟」のテーマはユウタナシイ(安楽死)であると明言していた。 明言していたのだが…。 自身の死の現実を了解して彼がいった。 「せめて、一切の延命処置をしないでほしい」と。 「せめて」とは、何を意味したのだろう、あれからずっと考えていた。 そんな私に喜助がぽっんと小さな穴をあけてくれた。 それからのことだ、「せめて」の中に、日本の法律や条例の足枷を見つけたのは。 驚いたことに、自分のことであっても自分の自由にならず、 自分の意思で決められない、ということがあるということだ。 そうか、そういうことだったのかと腑に落ちた。 生きている現実に自由や権利を当たり前として認めるなら、 死ぬ自由や権利があってもいい筈だ。 「神様がくれた命ですから、思し召しのまま…」などと、 神さまの慈悲に委ねる理屈など、わたしに通じやしなかった。 今朝のニュースだった(’20.12.17)。 スペインで安楽死の合法化が下院で可決とテロップが流れた。 あれは今年の2月ごろだっただろうか、 スペイン議会は安楽死合法化の法案の発議を承認していた。 夏、ニュージーランドでも安楽死を合法化することの国民投票が行われ、 合法化される見通しとなっなったはずだ。 そう言えば日本人女性が安楽死を望んで スイスへ渡ったのは数年前のことだっただろうか…。 西部 邁の自死(幇助)は記憶に新しい。 「せめて」といった彼の言葉が引っ掛かったままだ。 何故、自分で自分のことが決められないのだろう。 今の時代、病院で個人の死さえ自然に迎えることが出来ない。 弄繰り回されて、心も体も疲れ果てさせられる。 そんな医者が全てではないと思っても皆人間だ、 医者や看護師が特別(ヒポクラテスやナイチンゲール)だって! 特別な善人なんかいやしない。 彼らは神でも天使でもないし、大切な叡智は全く磨かれちゃいない。 俎板の鯉(患者)は彼らに神頼みをする立場だ、そりゃ涙の感謝もするだろう。 日本の医療業界も偽善医療・診療、偽善看護・介護がある。 私の経験だ、外科医たちは手術を控えた患者からお金や付け届けを受け取る。 今もかなりいるはずだ。 今、そんな