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三つの教え        

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満たされないものがあるってね。 何がでなく、誰がでもなく、 時間の存在を信頼するからこそ、 人を愛する幸せが当たり前のこととして生きてきた。 なのに…何かが違う、 何が間違っているのかと、コロコロ鳴る空洞の頭で考えた。 そう、そもそも時間など存在しないのかも知れないのだから。 もしそうだとしたら、この世界の全ては実体などないと言うことになる。 それは、死ぬときにしか理解できないかも知れなくて、 死は、存在の実体を理解する最後の機会と言えるかもしれない^^                    若者の定義は様々あって、何だかなぁと思うけれど、 現在、政府(?)が定義する若者は39歳までだそうだ。 日本人が大人になれないのも、こんな定義からかも知れない^^。 子供を産むことができる肉体的条件がとうの昔に揃い、 家庭を持ち、次代を育てる責任が想定できる年代が若者に含まれる? なんだか日本はとてもダサイものを抱えているようだ。 田舎の高齢者は「この年じゃ…」の言葉に絡まれて、 オシャレしたくても表向きは必要以上に地味だ。 じゃあ、若い世代はといえば、真逆に飛びぬけて子供っぽい。 全ての人がと言うことじゃないけれど。 「日本の文化で一番自慢できるものは何ですか」という質問に、 「アニメ」と答える文化からきているのじゃないかと思う。 そうなのね、今日本が一番誇れる文化はアニメなんだ…、 私の気分は下降する…、私だけかな? 確かにアニメは日本の経済を動かしているようだし。 泣く子と中国とアニメに勝てないのは 日本の政治経済であり大人たちだ。 大企業も市区町村も、あれもこれもアニメキャラクターを設定すると、 それは全てが手足の長いアフリカ系の腰高スタイルを持ち、 ヘアスタイルとファッションのデザインが異なるだけで、 目のやたら大きな、髪に半分隠れた小顔はみんな同じ顔をしている。 差別をしてはいけない常識とやらが闊歩するからだろうか、 それにしてもみんな、お人形の顔立ちでスタイルも抜群。 大人の文化圏(海外)では 幼児期から抜けていない国だから、恐るるに足らずの指数になっても、 切磋琢磨する相手としての文化指数は低いんじゃないかと思うけれど…。 縮小したと言えど、東京オリンピックの企画センスは悪い。 儲けることしか考えないセンスの悪い電通に丸投げしたからだと思うけれど、 政治家のセン

ハーブ畑より 

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僕のために、 僕を愛してくれているひとり人の女性がいる。  真面目な話、こんな救いは無い。          デビット・ボウイ 時間を見つけて少しお掃除だ。 年末の大掃除をするつもりはないのだけど、 なぜかいつもよりいろいろ気になってしまう^^ 久しぶりの朝、チーズを焼いて熱い珈琲にした。 お掃除をたっぷりやった気分でひと休みに、 畑(…庭?)で収穫したカモミールでミルクティーを淹れる。 冷たいバケツの水に感覚が鈍る手も温まる。 テーブルに甘い香りが漂うと、ホッとする。 種を蒔かなくても、カモミールは毎年顔を出してくれる。 真面目な話、こんな穏やかな救いっていいものだと思う。

忘却     

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灰色雲のかかる空、寒さもひとしお。 恒例の友人の舞台を観て、ついでに熊谷守一展を覗いた。 約束のお店に辿り着いた時は 白い雪(?)が舞い始めていているようで(そんなはずないんだけど…) そうか、頭の中で降るは雪か、それとも雨か? う~ん、ゆっくり飲めばいいいいかと、良きに計らって ついつい久しぶりのお酒を聞こし召した。 少しばかりなのによく飲んだ気分になるのは年の所為かな。 気分で飲んで、ついでにほろ酔い衝動も気分だ。 「送っていこうか」と言う友を「大丈夫よ」と置き去りにしタクシーを拾う。 いつもの道の対岸をタクシーに揺られ、脳みそも揺られ家路を急ぐ。 「いつもの道と違うかも…でもこのまま行ってください」 と、なんだか意味不明なことを呟いていた。 川の向こう岸、道路際にポツンと古い宿が一軒あって だいだいいろのあかりが幾つか灯る。 けむる対岸かわたしの脳みそか、おぼろに幻想的だ。 東北の雪深い町で見た記憶が想起されると 原因不明な嫌悪に過ぎた時間も、冷たい雪に気が滅入った日々も あれもこれも、みんなそういうものと思えてくる。 記憶の中を歩いても人っ子一人見当たらない。 みんなは元気に暮らしているだろうか? どの鏡の後ろにも 永遠の静けさが一つずつ それから飛び去らなかった 沈黙たちの巣が一つずつ Lorca みんな、音もたてず眠っているのだろう。 霧の中で誰も見えないのは初めから誰もいなかったからか? 否、夜だからだ^^ それとも誰しも人は一人であることを教えられたからか? 否、一人に慣れて、全て忘れてしまったからだ。 タクシーはゆっくりゆっくり夜を走る。 「着きましたよ。1,320円いただきます」 かなりの時間が過ぎていったような気がしたけれど タクシー料金は十数分ほどのメータしか走っていなかった。 夜の時間にはきっと狐か狸が住んでいるのだと思った。 こころも頭もオメメもすこしばかりくらくら。 書きたいことがあったのに 何だかどうでもいいことかもしれないと却下。 一つずつ一つずつ折りたたんで片付けるしかないんだから。 こうして少しずつ、遠くになってゆくのかも知れない。 そう、人間は忘却の生き物だ。

有色人種のトイレがない     

米航空宇宙局(NASA)は、 差別と不平等を解消する取り組みの一環として、 不適切な愛称で呼ばれる惑星や天体を 今後は国際天文学連合(IAU)の正式名称を使用すると発表した。 — NASA (@NASA) August 5, 2020 1787年にウィリアム・ハーシェル氏が発見した「エスキモー星雲」 エスキモーは北極圏の先住民に対する人種差別的な用語なのだそうだ。 また「シャム双生児銀河」のシャムは、タイの双生児兄弟が サーカスで見世物にされていたとき使用されたいた名前らしい。 そう、あのNASAが今頃になって不平等の解消?…と、思った出来事だった。 そして、想像力の無さすぎでというか 人間には慣れがある。 無意識に人を差別することがあるってことだ。 しかもこの公表には続きがある。 これらの発表に対し、ネットでは 「今度はキャンセル・スペース・カルチャーか。  人類はジョークと化した。巨大な隕石が我々を一掃するのも時間の問題だ」 「素晴らしいアイデア!これらはマイノリティの生活向上に役立つだろう。  そしてシカゴやニューヨークでもすぐに発砲事件が消滅するに違いない」 と揶揄する声が上がった。 また「ブラック・ホールはもう使ってはいけない」とか 「ソンブレロ銀河は反メキシコ人の名前だ」 「NASAの仕事は宇宙の探索だ。美徳のシグナルを送って、 目覚めたカルトに譲歩している場合ではない」などの声が寄せられた。 「黒人の命も大切だ」と叫んで起こった社会運動にもみられ、 時に、否、そのムーブメントの多くが歪な方向へねじ曲がる。 そうした負の側面を多く抱えているにもかかわらず、 誰も反論できない可笑しな正義が闊歩する。 なぜだか「我々は弱者だ」と訴え、暴徒化する人々に対して、 正面からの反論すら許されない正義とやらが暗黙の内に醸成される。 NASAも人種差別や女性軽視の風潮が当時は普通だったのだろうとは思う。 それを考慮しても、巷は良くも悪くも言いたい放題だ。 このごろこうしたキャンセル・カルチャが怖いと思うことが増えた。 TOYOU2020(日本の五輪)にも吹き荒れたし、 日本のワクチン開発が遅れた原因に吹き荒れたのも、 誰かに動かされた自称賢い女達のキャンセル・カルチャだ。 遡れば戦時下、これもまた自称愛国者の女達が、 標語を掲げ町を練り歩いたのも同じ現象だ。 SNSや学

いい女、
それをイットガールと呼ぶ    

『イットガール』 この単語がどれほどの認知度があるかは分からないけれど。 映画? ファッション? に 関心がある人の認知度は高いかもしれない。   「イットガール」の呼び名は、 1927 年の映画「It 」(「それ」の意)によって 一世風靡した女優クララ・ボウ( Clara Bow )が「 It Girl 」と呼ばれたことに因み、 愛らしさとセクシーさを兼ね備えた女優やモデルを指して、呼ぶようになった。 日本に「イットガール」と呼ぶ文化がいつ頃伝わったのかは知らない。   ただ何年か前、 毎年のようにモンクレール(ダウンジャケット)を欲しいと思い、 もちろん思うだけで、ダウンごときで30万なんて 気軽には手が出ないから 諦めつづけて時は過ぎ… デスガ^^ でも見るだけならタダなのだと思い、ネットを色々チェックしていたことがある。 その時ヴォーグ日本版の HP で「イットガール」という懐かしい単語を見つけた。   あれは随分むかしのことになる。まだわたしが美しかった(…?)ころ^^ 打ち合わせを終え帰社する途中、同行の上司が車窓に張られた広告を指し 「僕はこの広告のコピーに興味を覚えましたが、君はどうですか」 と聞いてきたのだ。 しばらく指示された広告をながめ、 「とてもイットが悩ましい、この《イット》が気になります」と答えると 「僕もそう思います」 それで話は終わった…。   それは山手線ドア脇の車窓に張られたヘチマ化粧水の広告だった。 全体のビジュアルデザインは当時の庶民派中高年向き(地味~^^) コピー全体は忘れてしまったが、かなり古めかしさを感じたものだった。 広告は陳腐化との境界を遊ぶ面白さもあるけれど 少し早いというか、すこし遅いというか 何だかやぼったくて使いこなされていないと、生意気にもその時は思った。     けれど、この《イット》が妙に気になっていて。 イットを文脈から、“ it is  …”の it と単純理解はできるのだけど。 つまりこの商品を使った女性は、美しい肌を手に入れるだろう。 そしてそれ(化粧水)=イット⇒美しい女と繫がる。 何と言ってもネーミングがやぼったい、それでも野暮な商品名がメージさせる 腰が括れた女性の色香が伝わるからだろうか、 「とてもイットが悩ましい」とコピーが結ばれると、 ヘチマ化粧水を使用する女の愛らしさとセクシーさ

価値観             

そう言えば、いつだったか?   ネット配信のニュースをクリック。 時を置かずして二つの話題が目に留まった。    一つは「《 花かごを持つ少女 》一億 125 億円で落札」 もう一つは「学生食堂の壁画《 きずな 》がリフォームで廃棄処分」 アート性から言えば価値はさほど高くないバンクシーの風刺画に 話題を仕組んだのは誰だろう? そう、仕組み方で価値が変わる。 バイヤーやコレクターたちの思惑が行脚するのが透けて見える…。 もっとも日本では、爪を色とりどりに塗ったり飾ることを ネールアートというのだから、既にアートという言葉自体、 正面から論じるものじゃなくなった時代なのだろう…。 5~6年ほど前、日本の精神障害者の絵がEUで持て囃された時期があった。 「コレクターたちに普通の作品は飽きられてますから…」という言葉に、 日本の精神障害者の作品に目をつけたEUのバイヤーの本音が見え隠れした。 日本の精神障害者は普通じゃないから価値があると言うことなのか…? オリンピックIOCの表とその裏にある事情と同じだ。 大衆を食い物にするほんの一つまみのバイヤーやコレクターに 投資マネーが飛び交うのだ。 もちろん矛盾だが、それで生きがいを見つけた障害者もいるし、 どんなに矛盾だらけの土壌であっても、 そこに繰り広げられるスポーツを観戦して 感動や勇気を貰った人もいることは事実で、 だからそのこと事態は無意味ではないだろう。 しかし少なくとも、それらの全てをひっくるめても、あれもこれもどれも、 価値観という幻想の屍と褥(しとね)だと言うことは確かだ。   もちろん、ピカソと宇佐美の、 二人の芸術家に、否二つの作品かな? それらに与えられた対処の差(作品の価値)を比較する気も、 そんな知識も持ち得ないけれど、私の価値観から言えば お金を積まれても欲しくない《花かごを持つ少女》であることは確かだし、 ゆっくり鑑賞していたい作品でもない。 オークション会場で跳ね上がる、実態があるとは思えない価値観にほくそ笑むのは コレクターとバイヤー、そして肩書に〇〇研究員が付く一部の人なのだろうか。 なんだか、落札された値段が作品の評価につながるという幻想を 理解したい資産家(コレクター)の傍には寄り付くこともできやしないし、 世界がひっくり返っても寄り付けやしない者の、犬の遠吠えかな^^ けれど、そうし

木守りは
木を守るなり 

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木守りは木を守るなり 鴉のとりも鵯どりも 尊みてついばまずけり みぞれ待ち雪のふる待ち かくてほろぶる日をまつか              三好達治/残果 土曜の遅いランチの後、集まった仲間でふらりと散策に出た。 気候変動のしわ寄せだろうか、 色づくことなく枯れ始めた木々も 多く、今年の紅葉は少し物足りない。 朽ちた家屋の庭先に柿の木が一本寂しそうにあるのをみた。 まるで忘れ去られたように幾つかの実をつけたままだ。 一つ二つ、熟柿が枝先にぶら下がっているのを見かけることがある。 これを「なり木の木守り」という。 残されている柿の実にどのような意味があるのか、 晩冬から初冬の日本の景色に欠かせない美しい柿の実が、 収穫されず忘れられたようにぶらさがっているのは、 何となく侘しくもあるけれど… 「なり木の木守り」または「木守り柿」、 子守り柿(地域によってはキマブリとも)という。 もちろん残された実は忘れられたのではなく、 「収穫のとき実を全て取らずに残す」という 古くからの慣わしがあるようだ。 残し方は、一つだけという地域もあれば数個、 あるいは敷地から枝が出た部分に実った実は残す。 上部のほうの実と下のほうの実を少し残すなど、 残し方はさまざまのようだ。 実を残すようになったの理由は様々かも知れない。 私は「食べるものが乏しくなる生き物たちへのお裾分け」であり、 「実りへの御礼」と だと聞いて育った。 柿が大陸からわたってきたのは奈良時代ごろらしい。 それ以来、さまざまな生活用途のある柿は霊木とされたと聞く。 長野県一帯では、亡くなった人の魂は柿の木に降りて帰ってくるとされ、 柿の木を人間の魂と共鳴する魂を持つ木とする信仰があったようだ。 そして、果実はその木の魂が具現化したものだと捉えられたのだろうか、 果実はその木が一年のうちに実らせた魂であるから、 その果実を根こそぎ奪い取るのは、 その木の魂を取り去ってしまうことになる。 だから、魂の宿る木として存続を願い、一定数を残すとのことだった。 まだつい最近まで、人間は自然と共に生きていたのだろうな、 AIが神様の世界じゃないんだね、 こころに丁寧な時代だったのだ。

シナントロープ

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    白鳥が飛来すると東北の冬も本番を迎える。 わたしはいっぱい着込んで、しばしば近くの沼まで出かけた。 沼のほとりには小さな小屋があって、そこにパンの耳が置かれていた。 「ご自由にお取りください」 そんな手書きの看板が扉のノブに掛けられていたと思う。 わたしは沼の畔にしゃがみ、パンをのせた手のひらを白鳥に差し出しだす。 白鳥はくちばしを上手に滑らせパンを受けとる。 そして水面にくちばしをちょこっとつける。パンを湿らせていたのだろうか。 「白鳥は警戒心が強いから人間の手から餌を受け取らないよ」 そう周りは言ったけれど、そんなことはなかった。 行動に何の疑問も持たず、こころはちょっと自慢げだった。 あのころ観光の目玉にもなっていた白鳥の餌付け風景を支えたのは、 全国から届けられる食パンの耳、雑穀、ワレ米などだったらしい。 しかしいつ頃からか自然動物と人間の境界が問題になって、 人間の食べ物は与えてはいけないってね、常識とやらが問われ始めた。 そして希少動物は特別で人間の手が差し伸べられても、 同じ生態系の問題だといって、増えすぎる動物は殺傷された。 そんな流れの中で白鳥の飛来地も餌付けを止めたんだね。 でもね、田んぼに飛来する白鳥は稲の落穂をすくいながら食べていた。 そう落穂ひろいなんだ。これって間接餌付けではあるよね。 今じゃ自然界の動物は 人間の領域に無断で入り込んで畑を荒らす害獣になるし、それだけじゃなくて、 病原菌をまき散らすことがクローズアップされている。 確かにね自然界はマラリア、コレラ、チフス、鳥インフルやコロナウイルス等々… 危険はいっぱいだ。だから自然界の動物に餌を与えたり近寄ってはいけないてね。 しかしどこか変だという気がする。 「シナントロープ(ギリシャ語)」という言葉がある。 つまり、人間が活動する周辺でその恩恵を受けて共生する動植物を指す言葉だ。 もう長い歴史の中で、人間と共存して恩恵を受けて生きる動物たちがいるってこと。 人間が豊かさを求め自然を開発し破壊したんだし、勝手に品種改良された愛玩動物も多いし、 住処を追われただろうね。彼らはやっとのこと人間の周辺環境に慣れ、そこに共生する。 きっと不要な者たち扱いのネズミとかスズメとかも、そうだったのだろうね。 最近の話じゃなくてローマ時代からのこと。そう、そこには長い共存の歴史があるんだ。

仇討ち             

飛騨に生まれた人から郷土の仇討ちの話を聞いた。 要約すると、と言っても短い内容だから、要約なんて変ですが、     「国若の墓」 徳川の時代のこと、国若という武士が女連れで、飛騨街道方面からやって来た。二人は洞山に仮住居し密かに暮らしていた。そこへ国若を仇とつけねらう武士が現れ、元来武芸達者だった国若だったが病床の身で、妻は果敢に戦ったものの所詮女の非力。共に討たれてしまった。村人たちは悲運な国若の墓を立て手厚く葬った。墓には「文化十五寅天(1818)南無阿弥陀仏、国若」と刻まれており、女の墓はやや離れたところに粗末な石が積み上げられている。 とのこと^^ 何故、女の墓が粗末なのか、 男の墓は飛騨の久野川地区に仇打ちで切られた近くに建てられていて、 墓石には『国若』と名前が刻まれているらしい。 詳細は分からないが、 ただ妻を奪われた武士が仇を討ったのではないかということだ。 妻を奪った武士は病床に伏していたからか、 村人の涙を誘ったのだろうか、手厚く葬られたようだ。 ただ、同地の旧家に残されていた国若所持の槍の故か、 その家に不幸が続いた。以後、槍は白山神杜に奉納されたようだ。 江戸時代の仇討ちや敵討ちは約束事が厳しく、 敵討ちの許可を受けるのも簡単ではなかったようだ。 その実態もドラマで見るようなスッキリとしたものとは程遠い。 女が絡む『武士の一分』(藤沢周平作)を思い出す。 偶然だが彼が残こした本を整理していて 『日本敵討ち異相』 長谷川 申作 を見つけた。 遠い時代の人間模様ではなく、 仇討ちの正当性は法に認められてはいないけれど、 今、繰り広げられている人々の人生模様に通じるものを垣間見た気がした。 久しぶりにローカル電車で飛騨まで出かけたいと思うのだが、 何だか近頃漫画やドラマで飛騨高山は流行りの賑わしさを漂わせていて、 その一歩の足が出ない。

アナログ
も悪くない  

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そうだね CD しか聴かなくなっていたから、 アンプ、チューナー、スピーカー、ターンテーブルもすべて処分した。 レコード盤も捨てた、捨てたつもりだった。   思えばプレミアムがつき、かなりの値段になっているものもあったと思う。 希少価値のあるものをオークションで落としたり、 ミュージシャンが来ると招待券が送られてきて、 ブルーノートに出かけたり、ライナーノーツを書いたり、本を出版したり、 海外からミュージシャンを招いてコンサートを企画したり…   私じゃなく、当時一緒に暮らしていた男(ひと)のことだ。 そんな彼の世界からこぼれてくる音楽を聴くようになって、 やがて二つに分かれた荷物に何枚かのレコードが紛れ込んだ。   長いながい行動制限の中、 中途半端になっていた本の整理を再開、紛れ込んでいたレコード盤が顔を出した。 聴きたいのだけれど、オーディオ環境は ZERO だから諦めるしかない …   そう思いながら階下に降りて TV のスイッチを on 、 偶然、バスルームの窓際でレコードを聴いている場面が映し出された。 これでもいいかも…と、さっそくスーツケース型のポータブルプレイヤーを購入。 針はサファイヤにしたのだけれど…良いのかな、悪いのかな。 音は悪いし音量もままならなくて、ノイズもまじる。 なのだけど…、完ぺきな音より時間がゆっくりと流れる気がする。 気がするだけかな…^^ さすが我が家のお風呂場は狭すぎるから窓際で聴くのは無理だけれど、 ハイキングだったら付き合ってくれそうだ^^

ゆきあいの空とさんま

  一雨ごとに秋めいて、少しけだるい雨上がり。 過ぎ行く季節と来る季節の狭間、ふたつの季節が混在する空を 『ゆきあいの空』と言う。 なんとなく大人の季節だ. 夜空では早々夏の星座が傾く南西の空に、細い月と金星と赤い星、 名残惜しそうに傾いた夏の星座の中に、秋が揺らぐゆきあいの空。 9 日は月の左側に離れて金星が輝き、金星の左側にはさそり座のアンタレス。 翌日の夕方 10 日には、金星は月の右側へと位置を変えアンタレスは月の左下。   金星に比べるとアンタレスはずっと暗いけれど、 西に沈む印象的な赤い星は星座の夏に終わりを告げるようで、 日の入り後の刹那、心惹かれる光景だ。 細いほそい月に、赤いアンタレスと金星が寄り添う。 名残惜しい夏の星座と寂しげでもある秋の星空。   とは言え、食欲の秋でもあって…、 缶詰じゃなくてやっぱり塩焼きにしてカボスや、スダチで食べたい。 目黒のさんまも昔は笑えるほどの食べ放題で安かった…のに。 今じゃ秋のさんまが一尾 800 円也、食欲の秋も遠のくようだ。

十五夜

    子供の頃、よく月を追いかけた。   けれど、追いかけても追いかけても その距離が縮まることはなくて… いい加減にしてねとあきらめれば、 なぜだか私の後ろをついて来る。 何てあまんじゃくなおっ月さんだろう。   銀座通りから東銀座へ行くまでの途中に路地があった。 間口一間半ほどの通りに、いくつかの飲み屋が軒を連ねていた。 そのうちの一軒の暖簾をくぐると、「いらっしゃい」 白髪交じりの髪を、小奇麗に結いあげた女将が迎えてくれる。 店は飲み屋の賑わしさなどもなく。 たいていは一人、せいぜい二人連れの客がほとんどで、 客たちは背負う荷物を降ろし、ひとときを過ごす。 「男子家を出ずれば七人の敵あり」 男の見栄とか、仕事のプライドとか、競争社会のだまし合いとか…、 そりゃ人の付き合いも難しく苦労も多い時代だった。 もちろん女もね^^   女将は元新橋芸者だった。 着物にたすき掛け、その振る舞いに雰囲気を残していたけれど、 あでやかな張りのある女はとうに姿を消し、 枯れた穏やかさが心地よい空間をもたらしてくれていた。   店の名前は「雨情」といった。 「雨上」あめあがりと書かれていたかも…? でも、どちらも良い店名だ^^   十五夜お月さん母さに もいちど私は会いたいな  野口雨情   雨上の路はぬかるみ、水溜には火影うつる    国木田独歩     あれから、 このようなお店にお目に掛ったことはない。 昨夜、しとしと雨は上がらず、 まんまるおっ月さんにも御目文字かなわず^^

長月の月

  きみが手を添えてくれたらいいのにと 二日満たない長月の月         /あきのの   このご時世 「少しさびしくある…」と呟いた私に 「ヘッセの『霧の中』知ってる?」君は云った。 そうか、 たくさんの星に囲まれていても、月も一三の夜ってあるものだし…。   満ちる日を待つ楽しみなのか、 それとも、 人間には尽きない欲望があるから、   だから、 いつも少し、 満ち足りないままなのか。

気まぐれ美術館       

白洲正子が心酔したというから、いい男だったのか … ? そう思ったのだが、そうでもなさそうだ。 しかし、何故だか女にモテたらしい。   『肉体の門』の著者田村泰次郎から画廊を引き継ぎ奮闘。 文筆家を志していたことも大きかったのだろう、 無名な画家を世に送り出してきた洲之内徹という人。   「君に洲之内さんを会わせてあげたかった」 彼がそう言ったのは昔のことになる。 某社の記者だったころ、 美術雑誌の編集長として引き抜かれたのが縁で 往年の洲之内徹と知り合ったらしい。 既に詳しい話を聞く術など無くなってしまったが、 彼が亡くなった年、 宮城県美術館に残された洲之内のコレクションを鑑賞しようと訪ねた。   彼から聞いてイメージしたほど、洲之内が『佳』とした作品と、 わたしの嗜好とは一致することはなかったが、 コレクションと洲之内の女性遍歴とが重ならないのも奇妙だった。     そんな洲之内氏について、野見山暁治(画家)が批評した文章を A 氏という方がネットで引用したものの一部分だけ、 これまた引用させていただいた^^    どだい使命なんぞというケナゲなものは、このひとにはない。   幼いときから洲之内さんをよく知っている人の記述によると、   女と寝ている洲之内さんのところへ夜中、奥さんが突然やってきて、   ランドセルを背負った二人の子供を置いて立ち去る…。   なるほど、このエピソードは彼から聞いたことがある。 しかし、洲之内自身は自分の女遍歴に何を言われてもいいが、 無名の画家たちをさげすむことは許さなかったようだ。   洲之内が亡くなった葬儀の日、 北池袋の教会から郊外の火葬場に向かうバスの中で、男は私一人だったと、 ネットで A 氏は書いていた。 A 氏は綴る。    並みいる女性たち、   ほとんどが故人の折々の歴史を刻んだひとだと、後で聞かされた。   「本当か…」と著者は付け足しているが、どこかつくられた物語を感じる。 なぜなら A 氏は自分の文体にか、洲之内の自由な生き方にか、 酔いしれているように続けているのだ。    黒い喪服に包まれた女が席を埋めつくし、   いちようにおし黙って、ひたすら車の振動に身をまかせ、   同じ方向を辿ってゆくなんて、   これはシュールレアリズムの世界、   見ごたえのある洲之内コレクションだった。 文筆家が陥る言

雨夜の月

久し振りの月だ。 昔むかしある偉い人が 「月は天上界に支配、リンゴは地上界に支配、 だからリンゴが落ちてきても月は落ちてこないのだ」 それに納得しなかったのがニュートン。 引力は離れれば離れるほど、とても小さくなるらしい。 先生はこれがニュートンの「万有引力の法則」だといっていた。 じゃあ「リンゴを高く上げていったら月になるの?」と聞いたら、 そうでもなさそうだ。 月が落ちてこないのは月は自分で仕事をしていて、忙しいのだ。 これが「ニュートンの運動方程式(オイラーが数式化)」だと言って笑った。 あれから幾年、 手を伸ばせば届きそうなのに、月は今宵も忙しそうだ。 追いかけても追いかけても追いつけなくて あきらめ帰ろうとしたら後ろからついてくるし、 何だか天邪鬼(あまのじゃく)な月だと思う。 叶わぬ思いを 傘を持ちだして君、おっ月さんに歌う   傘かして あげてとねだりし 雨夜月  /あきのの 

見えない次元

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だけど、目では、なにも見えないよ。 心でさがさないとね。 The Little Prince 急に降り出した雨。 雨宿りに立ち寄った珈琲屋さんで 恋人らしき二人の会話が聞こえてきた。 「だって、ちゃんと説明してくれなきゃ分かるわけないし、 あんたの次元は高すぎて、私には見えないのよ!」 えっ、次元が見えない? 見えない次元って『超ひも理論』の事!!! 20世紀の最大の発見とされる一般相対理論に  量子論を融合させた万物の理論が研究されていて  今日、超ひも理論が流行の最先端だ。 もちろんですが、「<strong>ひも</strong>」と言えど、 間違っても女性にたかる男の話ではありません…^^ ひも理論を説明するためには 私たちが体験することができない次元が必要だというのです。 偉い人が言うには、この多次元 「性能の悪い顕微鏡で見れば、遠くにある送電線に小さな蟻が 螺旋を描きながら移動していても見えないのと同じなのです」 だそうです。 可愛い彼女が涙声で抗議する気持ちよくわかる。 そうなのよね、そんな蟻さん見えるわけなんかないよね。 だからって、どうするのって言われると困るけれど… 次元を超えて多次元をみることなんかできないのだし  人間の目で見ることのできる世界には限界があるわ。 そこは性能の良い顕微鏡じゃなくて、 やっぱ、心でさがさないとね。  (*´v゚*)ゞ …と、思っていたけれど、 だけど、、、 やっぱ、、、 見えないものは見えるわけないんだから。

生きる価値

    きっと、探していたものとは異なる答えを見つけたのだ。     数年前の記録映画。 邦題 :『ダウン症のない世界?』 原題: A World Without Down’s Syndrome? 制作: Dragonfly Film & Television (イギリス  2016 年)     ダウン症の息子を持つ女優で脚本家(サリー)が 出生前診断の結果を受け、中絶を選ぶ女性が多い現実に 医師や制度の問題点を探るものだった。   出生前診断の精度が上がったことで、 イギリスではダウン症の子どもが生まれる確立が高い場合、 90%の女性が中絶を選ぶデータが紹介されたていた。 高福祉社会のアイスランドでは100%とのことだった。 日本ではどうなのだろう?         ダウン症( 21 トリソミー)協会によると、 2013 年に新型出生前診断( NIPT )が導入された日本では 現在までに NIPT 陽性で出産に至ったのは 3 例しかないとのこと。 つまり 99% 以上が人工妊娠中絶を選択している。 命の選別だと言われもするが、深い悲しみがその裏にある。 そう思うと、パラリンピックを控えて 未だにコロナ重症患者の命の選択を、 あなたのその軽い頭の中に、まるで哲学があるかのような顔をして 軽々に口にする愚かな医師がいるのは何とも悲しい。 あなた達は学ぶべき何かを間違えている。      

惚れて通えば千里も一里

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私たちは独りで判断できない状況に立たされたとき、 周り人の表情や口調などを手掛かりに、自分の行動を決めることがある。 例えば母親に抱っこされている乳児が、 外で犬を見たときやはじめて出会う人と対面したとき、 母親の顔を瞬時に見上げるのをしばしば見かける。 母親が好意を持ち相手に微笑んでいれば 乳児は安心してこちらを振りむく。 反対に母親が不快感や恐怖感を持ち、 乳児を抱くその身体に微妙な変化(例えば体温や心拍)が 起こったり、 抱きかかえる手の指に力が入ったりすれば、それを乳児は敏感に察知する。 そしてそこに起こる乳児のリアクションは、 あなたと相手(母親)との本音の一部 が垣間見える一瞬といえるかも知れない。 この乳児の行動を『社会的参照』という。 もちろん私たち大人も、判断の難しい状況に遭遇したとき、 信頼できる相手や自分の居場所を認識できる仲間の反応を手がかりに、 行動の指針を決定することがある。 SNSで自分が発信した情報に対し 構築したファンからもらう「イイネ」の数を確認する行動は、 現代社会に顕著な「社会的参照」だろう。 そんな繰り返しに価値観は形成されていく。 個人の知覚は感覚系から受け取る実際の刺激とは異なる。 つまり事象そのものが刺激ではなく私たちのこころ、 つまり刺激を知覚する機構によって読み取られたものが意味を持つということだ。 ラマシャンドラン(神経科学の教授)のレポートでは、 事故で腕を失った青年の 刺激を受け取るはずのない 腕が、 まだそこにある かのような刺激を受け取っていた「幻影視」の現象も それを語るものだろう。 私たちの刺激を知覚する機構は、 生きるために備わった感覚機能の受け取り方の大切さを教えてくれている。 例えば私が、そしてあなたが信頼する愛は、 積み上げられたこころ(刺激を知覚する機構)が読み取るもので、 相手が愛してくれているという(感覚系から受けた刺激)だけではなく、 あなたの中に愛が確かに積み上げられているからこそ感じるものだからだ。 いつの間にか私たちは、 そうした学習や経験を通し多くの文脈の中で知覚処理をしていて、 再任のための入力はほとんど必要としなくなることがある。 何らかの期待や当然そうであるべきという、 その人の文脈の中でトップダウン処理をおこない、 それがその人にとって適切であればあるほど、その知覚は促