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二元論でも一元論でもないけれど…

  治療薬候補の治験が始まって、 米国では 5 ~ 11 歳のワクチン治験数を増やすとのこと。 医療の進歩は人体実験や人体治験の歴史だ。   米国で子供の治験が始まったころ、 tv 局の記者が被験者の少年に問いかけていた。 「何故、治験に参加したの…」 「世の中のためになることだから参加しました」少年は答えた。 彼の身体への報酬は日本円で 20 ~ 30 万?程だったと思う。 参加は少年の意思と言うより、親の意向を感じるし、 そもそも、少年にマイクを向けた意図って何だったのだろう。   日本ではワクチン治験 1 週間程度拘束に、 7 万円でボランティア治験者を募集していた。 募集に関連した記事に「意外に高額な報酬」とあった。 ワクチン接種側である医療従事者への報酬は、 1 人で 1 日 100 人程度の接種は可能と考えられる計算で、 1 日 50 万を超える報酬が算出されるらしい。 その金額も、地域や、休日祝日であったりすると跳ね上がるようだ。 ここで日給 10 万円で医療従事者が派遣された場合、 付随するスタッフと残りは中間業者(電通?)の収入になる…。       接種者側にボランティアの立ち位置はなく、 治験者は、最初からボランティアと言うオブラードで包まれる。 取り敢えず、 人体実験は意思を無視して行われることを意味し、 人体治験は本人の自由意志となる。   ニか月ほど前のことだ、ニュース( F2 )で、生きた人体ではないが、 車の事故実態を研究する為、死体を使用している現実を知った。 驚いたのは、遺体が実験に使用されていることの道徳的な意味合いより、 「お金が払われていない」という遺族の訴えを主な話題にしていたこと。     事故実態の人体による検証実験は、日本でも行われていたようだ。   『豊田中央研究所 ( 1992. 3 )  人体の衝突傷害耐性』 の論文からピックアップ。   傷害のメカニズムを解明や耐性を究明したりする場合においては、   人間の死体や動物が用いられている。   人間の衝撃耐性の定量化に主眼が置かれているこの種の研究に関して、   欧米ではすでに 50 年以上の蓄積がある。   *     そして、死体解剖は芸術の世界でも行われていた(もちろん日本でも)。 世界中から絶大な評価を集めるダ・ヴィンチの時代に始まる。 彼は「芸術の

10分の重力の歪み

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「約束の時間に少し遅れます」とメールが入った。 少し…、 少しってどれくらい? あなたの言う少しの時間と 待たされる私の少しの時間 どうやら感じ方が違う。 10分程を過ぎたころ 朝はまだ長袖のシャツが欲しい頃なのだけど、 汗を滲ませあなたが駆けてくる。 何だか私の時間はいつも どちらかと言えば待つ10分の認識じゃなく 待たせる10分を生きていた。 いつも走っていた私の姿がある。 「時間が早く過ぎると感じたら気を付けろ」だなんて、 いい加減なこと言わないでよね。 恋人を待つ時間はたった1分でも長く感じるけれど、 共に過ごす午後はあっという間に過ぎるのだから。 確かな恋人を待つのならいいけれど 世の中って、いろいろ待ち人も事も来たらずだし … あっ!これってアインシュタインの 相対性理論の話に似ている…   (ノ∀`)・゚・。 そう言えばアインシュタインの一般相対性理論が、 重力の場の存在を予言してから≒100年目 念願の ブラックホールをつかまえてしまったから どうやら 重力レンズで時空は歪むってことは本当らしいし、 目に見えない欲望の重力で 情けないかな 私の認識レンズに歪むのは時空どころじゃないから、 だから  何にも分かっちゃいなかったと、やっと、 やっとそれくらいが分かって来たこの頃。 書きたいことがあったのに 何だかどうでもいいことかもしれないと却下。 少しずつ、過ぎる時間が急ぎ足になってきた。 (@_@; これは確かだ!

伽藍が白かったとき

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若かったとき、 新しい伽藍の夢を見ているだけで仕事が面白かったものだ。 けれど、立ち返ってみれば、白く新しい伽藍の記憶は 私の中でずっと眠っていたのだと思う。 『伽藍が白かったとき』を著したのは、コ ルビジェだ。 断片的に見た『輝ける都市』に圧倒されたものだ。 正確には、何でもありの時代、誰もが(?)そんな時があるように、 確かな手応えが欲しかった年頃だったのだろう。 タイミングよく表れたのがゴルビジェの『輝ける都市』だった。 コルビジェの「偉大な時代が始まった」の偉大な時代は、 彼が理想とした機械文明による労働の減少、 高層ビルによるゆとりが生まれる土地の使い方だった…(? ゆとりの土地には自動車のためにまっすぐな道路が走り、 そして、産業革命の鉄筋コンクリートは資本主義に拍車を掛けたけれど、 何だか息苦しい建築物が建ち並んでいった気がする。 結局、人間不在の、資本家の欲望を第一に、都市はつくられていった。 しかし当時の私の若さは、 晩年の代表作「ロンシャン礼拝堂」も「ラ・トゥーレット修道院」も 口を衝いて出る言葉と潜在意識の本音が、私の中で食い違っていたにも拘らず、 そこにカノンを意識した彼自身のモデュロール(*1)があることに、 知ったかぶりをして、ただ生意気だった。 「この計算された機能美、なんて凄いデザインだろう」ってね。  (*1)=人体の寸法と黄金比からコルビジェが作った建造物の基準寸法の数列 そして西洋美術館が、コルビジェの設計だと知ると、 通り過ぎていた建物の前に足を止め、色眼鏡をかけて見上げた。 私はやたら感心してつぶやいた「さすがコルビジェだ…」と。 コルビジェの何ひとつ知りもしないのに、なんて滑稽だっただろう。 随分の時間も過ぎ、ほんの二週間ほど前だ、 宇沢弘文(経済学者)の講演を収録した本を読んでいて、 コルビジェの名を見つけた。 古い本棚から検索したのは、懐かしい『西洋美術館』だ。 そして、西洋美術館は、 敗戦国という歴史を引きづっていたのだとはじめて理解した。 時に70歳だったコルビジェは、簡単なスケッチだけで全てを弟子に任せた。 意匠から見ても、日本の美術館など興味が無かったのが現実だろうな…。 だからかな、任された弟子たちは、 彼の過去の作品(パリ市立・国立美術館のスロープ式流動性や ネスレ展示館の回廊式展示)を継承する図面しか引く