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木守りは
木を守るなり 

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木守りは木を守るなり 鴉のとりも鵯どりも 尊みてついばまずけり みぞれ待ち雪のふる待ち かくてほろぶる日をまつか              三好達治/残果 土曜の遅いランチの後、集まった仲間でふらりと散策に出た。 気候変動のしわ寄せだろうか、 色づくことなく枯れ始めた木々も 多く、今年の紅葉は少し物足りない。 朽ちた家屋の庭先に柿の木が一本寂しそうにあるのをみた。 まるで忘れ去られたように幾つかの実をつけたままだ。 一つ二つ、熟柿が枝先にぶら下がっているのを見かけることがある。 これを「なり木の木守り」という。 残されている柿の実にどのような意味があるのか、 晩冬から初冬の日本の景色に欠かせない美しい柿の実が、 収穫されず忘れられたようにぶらさがっているのは、 何となく侘しくもあるけれど… 「なり木の木守り」または「木守り柿」、 子守り柿(地域によってはキマブリとも)という。 もちろん残された実は忘れられたのではなく、 「収穫のとき実を全て取らずに残す」という 古くからの慣わしがあるようだ。 残し方は、一つだけという地域もあれば数個、 あるいは敷地から枝が出た部分に実った実は残す。 上部のほうの実と下のほうの実を少し残すなど、 残し方はさまざまのようだ。 実を残すようになったの理由は様々かも知れない。 私は「食べるものが乏しくなる生き物たちへのお裾分け」であり、 「実りへの御礼」と だと聞いて育った。 柿が大陸からわたってきたのは奈良時代ごろらしい。 それ以来、さまざまな生活用途のある柿は霊木とされたと聞く。 長野県一帯では、亡くなった人の魂は柿の木に降りて帰ってくるとされ、 柿の木を人間の魂と共鳴する魂を持つ木とする信仰があったようだ。 そして、果実はその木の魂が具現化したものだと捉えられたのだろうか、 果実はその木が一年のうちに実らせた魂であるから、 その果実を根こそぎ奪い取るのは、 その木の魂を取り去ってしまうことになる。 だから、魂の宿る木として存続を願い、一定数を残すとのことだった。 まだつい最近まで、人間は自然と共に生きていたのだろうな、 AIが神様の世界じゃないんだね、 こころに丁寧な時代だったのだ。

シナントロープ

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    白鳥が飛来すると東北の冬も本番を迎える。 わたしはいっぱい着込んで、しばしば近くの沼まで出かけた。 沼のほとりには小さな小屋があって、そこにパンの耳が置かれていた。 「ご自由にお取りください」 そんな手書きの看板が扉のノブに掛けられていたと思う。 わたしは沼の畔にしゃがみ、パンをのせた手のひらを白鳥に差し出しだす。 白鳥はくちばしを上手に滑らせパンを受けとる。 そして水面にくちばしをちょこっとつける。パンを湿らせていたのだろうか。 「白鳥は警戒心が強いから人間の手から餌を受け取らないよ」 そう周りは言ったけれど、そんなことはなかった。 行動に何の疑問も持たず、こころはちょっと自慢げだった。 あのころ観光の目玉にもなっていた白鳥の餌付け風景を支えたのは、 全国から届けられる食パンの耳、雑穀、ワレ米などだったらしい。 しかしいつ頃からか自然動物と人間の境界が問題になって、 人間の食べ物は与えてはいけないってね、常識とやらが問われ始めた。 そして希少動物は特別で人間の手が差し伸べられても、 同じ生態系の問題だといって、増えすぎる動物は殺傷された。 そんな流れの中で白鳥の飛来地も餌付けを止めたんだね。 でもね、田んぼに飛来する白鳥は稲の落穂をすくいながら食べていた。 そう落穂ひろいなんだ。これって間接餌付けではあるよね。 今じゃ自然界の動物は 人間の領域に無断で入り込んで畑を荒らす害獣になるし、それだけじゃなくて、 病原菌をまき散らすことがクローズアップされている。 確かにね自然界はマラリア、コレラ、チフス、鳥インフルやコロナウイルス等々… 危険はいっぱいだ。だから自然界の動物に餌を与えたり近寄ってはいけないてね。 しかしどこか変だという気がする。 「シナントロープ(ギリシャ語)」という言葉がある。 つまり、人間が活動する周辺でその恩恵を受けて共生する動植物を指す言葉だ。 もう長い歴史の中で、人間と共存して恩恵を受けて生きる動物たちがいるってこと。 人間が豊かさを求め自然を開発し破壊したんだし、勝手に品種改良された愛玩動物も多いし、 住処を追われただろうね。彼らはやっとのこと人間の周辺環境に慣れ、そこに共生する。 きっと不要な者たち扱いのネズミとかスズメとかも、そうだったのだろうね。 最近の話じゃなくてローマ時代からのこと。そう、そこには長い共存の歴史があるんだ。