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12月, 2021の投稿を表示しています

三つの教え        

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満たされないものがあるってね。 何がでなく、誰がでもなく、 時間の存在を信頼するからこそ、 人を愛する幸せが当たり前のこととして生きてきた。 なのに…何かが違う、 何が間違っているのかと、コロコロ鳴る空洞の頭で考えた。 そう、そもそも時間など存在しないのかも知れないのだから。 もしそうだとしたら、この世界の全ては実体などないと言うことになる。 それは、死ぬときにしか理解できないかも知れなくて、 死は、存在の実体を理解する最後の機会と言えるかもしれない^^                    若者の定義は様々あって、何だかなぁと思うけれど、 現在、政府(?)が定義する若者は39歳までだそうだ。 日本人が大人になれないのも、こんな定義からかも知れない^^。 子供を産むことができる肉体的条件がとうの昔に揃い、 家庭を持ち、次代を育てる責任が想定できる年代が若者に含まれる? なんだか日本はとてもダサイものを抱えているようだ。 田舎の高齢者は「この年じゃ…」の言葉に絡まれて、 オシャレしたくても表向きは必要以上に地味だ。 じゃあ、若い世代はといえば、真逆に飛びぬけて子供っぽい。 全ての人がと言うことじゃないけれど。 「日本の文化で一番自慢できるものは何ですか」という質問に、 「アニメ」と答える文化からきているのじゃないかと思う。 そうなのね、今日本が一番誇れる文化はアニメなんだ…、 私の気分は下降する…、私だけかな? 確かにアニメは日本の経済を動かしているようだし。 泣く子と中国とアニメに勝てないのは 日本の政治経済であり大人たちだ。 大企業も市区町村も、あれもこれもアニメキャラクターを設定すると、 それは全てが手足の長いアフリカ系の腰高スタイルを持ち、 ヘアスタイルとファッションのデザインが異なるだけで、 目のやたら大きな、髪に半分隠れた小顔はみんな同じ顔をしている。 差別をしてはいけない常識とやらが闊歩するからだろうか、 それにしてもみんな、お人形の顔立ちでスタイルも抜群。 大人の文化圏(海外)では 幼児期から抜けていない国だから、恐るるに足らずの指数になっても、 切磋琢磨する相手としての文化指数は低いんじゃないかと思うけれど…。 縮小したと言えど、東京オリンピックの企画センスは悪い。 儲けることしか考えないセンスの悪い電通に丸投げしたからだと思うけれど、 政治家のセン

ハーブ畑より 

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僕のために、 僕を愛してくれているひとり人の女性がいる。  真面目な話、こんな救いは無い。          デビット・ボウイ 時間を見つけて少しお掃除だ。 年末の大掃除をするつもりはないのだけど、 なぜかいつもよりいろいろ気になってしまう^^ 久しぶりの朝、チーズを焼いて熱い珈琲にした。 お掃除をたっぷりやった気分でひと休みに、 畑(…庭?)で収穫したカモミールでミルクティーを淹れる。 冷たいバケツの水に感覚が鈍る手も温まる。 テーブルに甘い香りが漂うと、ホッとする。 種を蒔かなくても、カモミールは毎年顔を出してくれる。 真面目な話、こんな穏やかな救いっていいものだと思う。

忘却     

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灰色雲のかかる空、寒さもひとしお。 恒例の友人の舞台を観て、ついでに熊谷守一展を覗いた。 約束のお店に辿り着いた時は 白い雪(?)が舞い始めていているようで(そんなはずないんだけど…) そうか、頭の中で降るは雪か、それとも雨か? う~ん、ゆっくり飲めばいいいいかと、良きに計らって ついつい久しぶりのお酒を聞こし召した。 少しばかりなのによく飲んだ気分になるのは年の所為かな。 気分で飲んで、ついでにほろ酔い衝動も気分だ。 「送っていこうか」と言う友を「大丈夫よ」と置き去りにしタクシーを拾う。 いつもの道の対岸をタクシーに揺られ、脳みそも揺られ家路を急ぐ。 「いつもの道と違うかも…でもこのまま行ってください」 と、なんだか意味不明なことを呟いていた。 川の向こう岸、道路際にポツンと古い宿が一軒あって だいだいいろのあかりが幾つか灯る。 けむる対岸かわたしの脳みそか、おぼろに幻想的だ。 東北の雪深い町で見た記憶が想起されると 原因不明な嫌悪に過ぎた時間も、冷たい雪に気が滅入った日々も あれもこれも、みんなそういうものと思えてくる。 記憶の中を歩いても人っ子一人見当たらない。 みんなは元気に暮らしているだろうか? どの鏡の後ろにも 永遠の静けさが一つずつ それから飛び去らなかった 沈黙たちの巣が一つずつ Lorca みんな、音もたてず眠っているのだろう。 霧の中で誰も見えないのは初めから誰もいなかったからか? 否、夜だからだ^^ それとも誰しも人は一人であることを教えられたからか? 否、一人に慣れて、全て忘れてしまったからだ。 タクシーはゆっくりゆっくり夜を走る。 「着きましたよ。1,320円いただきます」 かなりの時間が過ぎていったような気がしたけれど タクシー料金は十数分ほどのメータしか走っていなかった。 夜の時間にはきっと狐か狸が住んでいるのだと思った。 こころも頭もオメメもすこしばかりくらくら。 書きたいことがあったのに 何だかどうでもいいことかもしれないと却下。 一つずつ一つずつ折りたたんで片付けるしかないんだから。 こうして少しずつ、遠くになってゆくのかも知れない。 そう、人間は忘却の生き物だ。

有色人種のトイレがない     

米航空宇宙局(NASA)は、 差別と不平等を解消する取り組みの一環として、 不適切な愛称で呼ばれる惑星や天体を 今後は国際天文学連合(IAU)の正式名称を使用すると発表した。 — NASA (@NASA) August 5, 2020 1787年にウィリアム・ハーシェル氏が発見した「エスキモー星雲」 エスキモーは北極圏の先住民に対する人種差別的な用語なのだそうだ。 また「シャム双生児銀河」のシャムは、タイの双生児兄弟が サーカスで見世物にされていたとき使用されたいた名前らしい。 そう、あのNASAが今頃になって不平等の解消?…と、思った出来事だった。 そして、想像力の無さすぎでというか 人間には慣れがある。 無意識に人を差別することがあるってことだ。 しかもこの公表には続きがある。 これらの発表に対し、ネットでは 「今度はキャンセル・スペース・カルチャーか。  人類はジョークと化した。巨大な隕石が我々を一掃するのも時間の問題だ」 「素晴らしいアイデア!これらはマイノリティの生活向上に役立つだろう。  そしてシカゴやニューヨークでもすぐに発砲事件が消滅するに違いない」 と揶揄する声が上がった。 また「ブラック・ホールはもう使ってはいけない」とか 「ソンブレロ銀河は反メキシコ人の名前だ」 「NASAの仕事は宇宙の探索だ。美徳のシグナルを送って、 目覚めたカルトに譲歩している場合ではない」などの声が寄せられた。 「黒人の命も大切だ」と叫んで起こった社会運動にもみられ、 時に、否、そのムーブメントの多くが歪な方向へねじ曲がる。 そうした負の側面を多く抱えているにもかかわらず、 誰も反論できない可笑しな正義が闊歩する。 なぜだか「我々は弱者だ」と訴え、暴徒化する人々に対して、 正面からの反論すら許されない正義とやらが暗黙の内に醸成される。 NASAも人種差別や女性軽視の風潮が当時は普通だったのだろうとは思う。 それを考慮しても、巷は良くも悪くも言いたい放題だ。 このごろこうしたキャンセル・カルチャが怖いと思うことが増えた。 TOYOU2020(日本の五輪)にも吹き荒れたし、 日本のワクチン開発が遅れた原因に吹き荒れたのも、 誰かに動かされた自称賢い女達のキャンセル・カルチャだ。 遡れば戦時下、これもまた自称愛国者の女達が、 標語を掲げ町を練り歩いたのも同じ現象だ。 SNSや学

いい女、
それをイットガールと呼ぶ    

『イットガール』 この単語がどれほどの認知度があるかは分からないけれど。 映画? ファッション? に 関心がある人の認知度は高いかもしれない。   「イットガール」の呼び名は、 1927 年の映画「It 」(「それ」の意)によって 一世風靡した女優クララ・ボウ( Clara Bow )が「 It Girl 」と呼ばれたことに因み、 愛らしさとセクシーさを兼ね備えた女優やモデルを指して、呼ぶようになった。 日本に「イットガール」と呼ぶ文化がいつ頃伝わったのかは知らない。   ただ何年か前、 毎年のようにモンクレール(ダウンジャケット)を欲しいと思い、 もちろん思うだけで、ダウンごときで30万なんて 気軽には手が出ないから 諦めつづけて時は過ぎ… デスガ^^ でも見るだけならタダなのだと思い、ネットを色々チェックしていたことがある。 その時ヴォーグ日本版の HP で「イットガール」という懐かしい単語を見つけた。   あれは随分むかしのことになる。まだわたしが美しかった(…?)ころ^^ 打ち合わせを終え帰社する途中、同行の上司が車窓に張られた広告を指し 「僕はこの広告のコピーに興味を覚えましたが、君はどうですか」 と聞いてきたのだ。 しばらく指示された広告をながめ、 「とてもイットが悩ましい、この《イット》が気になります」と答えると 「僕もそう思います」 それで話は終わった…。   それは山手線ドア脇の車窓に張られたヘチマ化粧水の広告だった。 全体のビジュアルデザインは当時の庶民派中高年向き(地味~^^) コピー全体は忘れてしまったが、かなり古めかしさを感じたものだった。 広告は陳腐化との境界を遊ぶ面白さもあるけれど 少し早いというか、すこし遅いというか 何だかやぼったくて使いこなされていないと、生意気にもその時は思った。     けれど、この《イット》が妙に気になっていて。 イットを文脈から、“ it is  …”の it と単純理解はできるのだけど。 つまりこの商品を使った女性は、美しい肌を手に入れるだろう。 そしてそれ(化粧水)=イット⇒美しい女と繫がる。 何と言ってもネーミングがやぼったい、それでも野暮な商品名がメージさせる 腰が括れた女性の色香が伝わるからだろうか、 「とてもイットが悩ましい」とコピーが結ばれると、 ヘチマ化粧水を使用する女の愛らしさとセクシーさ

価値観             

そう言えば、いつだったか?   ネット配信のニュースをクリック。 時を置かずして二つの話題が目に留まった。    一つは「《 花かごを持つ少女 》一億 125 億円で落札」 もう一つは「学生食堂の壁画《 きずな 》がリフォームで廃棄処分」 アート性から言えば価値はさほど高くないバンクシーの風刺画に 話題を仕組んだのは誰だろう? そう、仕組み方で価値が変わる。 バイヤーやコレクターたちの思惑が行脚するのが透けて見える…。 もっとも日本では、爪を色とりどりに塗ったり飾ることを ネールアートというのだから、既にアートという言葉自体、 正面から論じるものじゃなくなった時代なのだろう…。 5~6年ほど前、日本の精神障害者の絵がEUで持て囃された時期があった。 「コレクターたちに普通の作品は飽きられてますから…」という言葉に、 日本の精神障害者の作品に目をつけたEUのバイヤーの本音が見え隠れした。 日本の精神障害者は普通じゃないから価値があると言うことなのか…? オリンピックIOCの表とその裏にある事情と同じだ。 大衆を食い物にするほんの一つまみのバイヤーやコレクターに 投資マネーが飛び交うのだ。 もちろん矛盾だが、それで生きがいを見つけた障害者もいるし、 どんなに矛盾だらけの土壌であっても、 そこに繰り広げられるスポーツを観戦して 感動や勇気を貰った人もいることは事実で、 だからそのこと事態は無意味ではないだろう。 しかし少なくとも、それらの全てをひっくるめても、あれもこれもどれも、 価値観という幻想の屍と褥(しとね)だと言うことは確かだ。   もちろん、ピカソと宇佐美の、 二人の芸術家に、否二つの作品かな? それらに与えられた対処の差(作品の価値)を比較する気も、 そんな知識も持ち得ないけれど、私の価値観から言えば お金を積まれても欲しくない《花かごを持つ少女》であることは確かだし、 ゆっくり鑑賞していたい作品でもない。 オークション会場で跳ね上がる、実態があるとは思えない価値観にほくそ笑むのは コレクターとバイヤー、そして肩書に〇〇研究員が付く一部の人なのだろうか。 なんだか、落札された値段が作品の評価につながるという幻想を 理解したい資産家(コレクター)の傍には寄り付くこともできやしないし、 世界がひっくり返っても寄り付けやしない者の、犬の遠吠えかな^^ けれど、そうし