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ボロボロのきものを脱ぐ 

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人生には転機があるものだ。 これが最後の転機になるのかな…、そう思う。 今月中に最後の本焼きを終了して、 来月75アンペア―の電気契約を40アンペア―下げる予約を入れる。 「しろうと本窯を築くべからず」も(時間とお金がかかり過ぎ)理解したし、 しかも吾を忘れて没頭していた素朴さがなくなった(致命的)。 一体何をやっているのだろうと、空虚感が大きすぎるこの頃だ… けれど往々に、人生とはそんなものかもしれない。 否、「広義の人生とは…」ではなく、私の人生はですね。 けれど幾らかの人も何らかの空虚を抱えていて、抱えた記憶があって、 そうした空虚感を癒そうと何かに没頭するのだけれど…、 色々な意味で思い上がりが全てを台無しにすることがある。 結局内面の空しさは埋められることもないままだ。 恋人との関係に例えれば、心理的距離が近くなればなるほど 愛と憎しみの相反する葛藤がつのるってところに似ているかな。 フロイトはそんな恋人の心理状況を比喩して 『ヤマアラシのジレンマ』と名付けた。 「ヤマアラシのジレンマ」は 『随感録』(ショーペンハウアー)に収録されている逸話だ。     やまあらしの一群が、冷たい冬のある日    お互いの体温で凍えることを防ぐためにぴったりくっつきあった。    だが、まもなくお互いに刺の痛いのが感じられて、また別れた。    温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされる。    やまあらし達は近づいたり離れたりを繰り返し    やっと、ちょうど良い距離を見つける…    こうして彼らがついにあみだした中くらいの    そして共同生活がそれで成り立ちうるほどの隔たりというのが    節度ある上品な風習(社会でのお付き合いのあり方)だ。      この隔たり(距離感)のおかげで、    おたがいに温めあおうという欲求は    不完全にしか満たされないけれど、    かわりに刺でさされる痛さは感じないで済むのだ。 面白い例えだ。 長い間、話はこれで終わりだと思っていた。 しかし改めて本を手にしたら、ハウワーの話は続きがあった。     しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は    面倒をかけたりかけられたりしたくないために    むしろ社交界から遠ざかっているのである。 社交界だなんて訳されると遠い世界のようだけれど、 たまに日本人の