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惚れて通えば千里も一里

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私たちは独りで判断できない状況に立たされたとき、 周り人の表情や口調などを手掛かりに、自分の行動を決めることがある。 例えば母親に抱っこされている乳児が、 外で犬を見たときやはじめて出会う人と対面したとき、 母親の顔を瞬時に見上げるのをしばしば見かける。 母親が好意を持ち相手に微笑んでいれば 乳児は安心してこちらを振りむく。 反対に母親が不快感や恐怖感を持ち、 乳児を抱くその身体に微妙な変化(例えば体温や心拍)が 起こったり、 抱きかかえる手の指に力が入ったりすれば、それを乳児は敏感に察知する。 そしてそこに起こる乳児のリアクションは、 あなたと相手(母親)との本音の一部 が垣間見える一瞬といえるかも知れない。 この乳児の行動を『社会的参照』という。 もちろん私たち大人も、判断の難しい状況に遭遇したとき、 信頼できる相手や自分の居場所を認識できる仲間の反応を手がかりに、 行動の指針を決定することがある。 SNSで自分が発信した情報に対し 構築したファンからもらう「イイネ」の数を確認する行動は、 現代社会に顕著な「社会的参照」だろう。 そんな繰り返しに価値観は形成されていく。 個人の知覚は感覚系から受け取る実際の刺激とは異なる。 つまり事象そのものが刺激ではなく私たちのこころ、 つまり刺激を知覚する機構によって読み取られたものが意味を持つということだ。 ラマシャンドラン(神経科学の教授)のレポートでは、 事故で腕を失った青年の 刺激を受け取るはずのない 腕が、 まだそこにある かのような刺激を受け取っていた「幻影視」の現象も それを語るものだろう。 私たちの刺激を知覚する機構は、 生きるために備わった感覚機能の受け取り方の大切さを教えてくれている。 例えば私が、そしてあなたが信頼する愛は、 積み上げられたこころ(刺激を知覚する機構)が読み取るもので、 相手が愛してくれているという(感覚系から受けた刺激)だけではなく、 あなたの中に愛が確かに積み上げられているからこそ感じるものだからだ。 いつの間にか私たちは、 そうした学習や経験を通し多くの文脈の中で知覚処理をしていて、 再任のための入力はほとんど必要としなくなることがある。 何らかの期待や当然そうであるべきという、 その人の文脈の中でトップダウン処理をおこない、 それがその人にとって適切であればあるほど、その知覚は促