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8月, 2022の投稿を表示しています

認知革命            

「神様」というのは ある意味の「虚構」なのです。 「神様」の存在を信じることは できます。 でも、実際に「神様」に会った人は おそらくほとんどいないわけです。         ユヴァル・ノア・ハラリ 私たちは、 実際に存在しないモノについて、 話ができ。 実際に存在しないモノについて、認識することができる。 つまり、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力。 五感では感じたことのないありとあらゆる種類の存在について 話すことが出来るのはサピエンスだけなのだ。 こうしたサピエンスが持ち得た能力を、 「認知革命」だと、ハラリ氏は云う。 そして、良くも悪くも、この能力の 結果、 伝説・神話・神々・宗教が生まれ。 伝説を共有する人々の間で、 「協力し合う」 力が生まれることになったと分析する。 そうだね、けれど、人間は 動物的直感だけで生きる狭い暮らしが物足りなくて、 もっと勢力範囲を広げ、世界を支配したくて、 意思の疎通を図る「ことば」を発見してからというもの 言葉を駆使して思考する、そして他者に伝えようとした。 やがて神様や伝説を共有することで多くを束ねることを覚えた。   …、のだけれど…。 そこに生まれた現在は、グローバル化が進み、 今やほとんどの国が、 一国だけでは経済が成り立たなくなり(ほんとかな?)、 国際関係が緊密になった結果として、 国家の独立性が弱まってきている。 そうした現状を鑑み、ハラリ氏は云うのだ。 やがて、世界の「統一」が進んでいくってね。 ネアンデルタール人たちがせいぜい 20〜30人くらいでしか 協力できなかったのに対し、 ハグや肉体的交流だけでは せいぜい200人くらいまでしか協力し合えないそうだ。 しかしホモ・サピエンスは言葉を使い認知革命を起こし、 「神話」「宗教」を共有する術を手にし、 より大きな集団での協力を可能としたと云うことだ。 そしてそこに、 イデオロギーの共有に重なる側面があるとハラリ氏は云う。 良い事か悪い事かは私には分からない。 ただ根本に、 欧米の個人主義的合理主義が生んだ自由がうごめいているってね、 そんな思いが脳裏をよぎる?。 ハラリ氏が考える個人主義的合理主義の自由と ゴータマ(釈迦)の自由とかなり違うのだけど、 けれどハラリ氏は、仏教の可能性を語っているんだね。 何か感じるところがあったのかなってね、

水の争奪戦  

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数年ぶりに空の乗り合いバスに搭乗した友から 「ボジョレーヌーヴォ2022予約承りますですって!」とLINE。 今年2022年の解禁は11月17日とのこと。 そこへ今朝のニュースが重なる。 フランスの環境活動家たちが、 カーボンニュートラルとやらで、 駐車している車のタイヤのリムバルブ保護キャップを外したり、 「干ばつによる水不足で、農業用水に使用制限が出されたのに、 ゴルフ場の芝生は『給水禁止除外』なんておかしい」と、 ゴルフ場に無断で入り込み、 ホールカップをセメントで埋めた。 これで芝生にまかれる水はブドウ畑に回されるだろうか…? フランスのブドウ畑に、 「霜対策で火がたかれた」とニュースが届いたのは 今年の春だ。 去年の霜ではかなりブドウやられてしまったけれど、 今年は何とか収穫が戻ると思われた矢先、 この夏の深刻な干ばつの影響が懸念されていた。 「ボージョレー・ヌーヴォお安くなって解禁」 だなんて時代は遠くなったのかな… もっとも、ヌーヴォなのかヴィラージュなのか、 わたしは 買ったことなど一度もないのだからどちらでもいい。 それに、今じゃボルドーのシャトーにはためくのは中国国旗。 ワインの生産者(ドメーヌ)のオーナーも 中国人投資家に虫食い状態なのだ。 何だかな… 昔、ヌーボが解禁になると 「今日はワインを買って…」という日本人が多かった。 きっと気分は「フランス人」だったのだろう。 だから今じゃ「気分は中国人」なのかも…? 「中国は5000年前からワインを飲んでいた。世界が注目」 だなんて大風呂敷で中国寄のコピーが躍っても…、 ワインはエジプトからヨーロッパへ、 ヨーロッパから、かの絹の道を通って中国に伝わったのだし、 そもそもエジプトでは紀元前8000年ごろ、 諄いのですが紀元前8000年ごろから 飲まれていたのだし。 そう、古代エジプトでは、ワインはファラオと神の飲み物で、 一般に普及したのは新王朝時代ごろからだ。 当時の庶民はと言えばビール。 この時代にビールもすごいけれど…! 大衆はピラミッド建設に携わることで パンやビールの振る舞いを受けていたようだ? でも、きっとぬるいビールだっただろうな…と思う。 そもそもビールを冷たくするのは日本の飲み方らしい。 どちらにしても、そんな特別感があったワインだけど、 当初は野生のブドウをつぼに詰めて発酵させ

さよならの夏が過ぎる 

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父と母の墓を訪ねた。 兄の家は天井までの広い窓に、外断熱。 屋根にパネルを設置、蓄電池を設備して、 メンテが高くつきそうなオール電化になっていた。 SDGsなのだそうだ…。 当たり前だけど時代は変わり、 実家は遠くなるものだと気が付いた 。 それにしてもパネルのランニングとイニシャルコストの 環境負荷はリアルに計算すると、どれくらいなんだろう。 中国製造じゃ商品が安そうでもその後に問題ありそうだ。。。 中国が儲かるだけの太陽光など要らないし。。。 2012年に固定価格買取制度が導入、太陽光は加速度的に増えた。 太陽光パネルは、製品寿命が約25~30年。メンテもままならない。 そこから太陽光発電事業は2040年頃には終了とされる。 その際、太陽光発電設備の太陽光パネルを含む廃棄物が出る。 問題山積みのカーボンニュートラルってことだ。 太陽光パネルの廃棄に関する懸念をダラダラと書き連ねると、 障壁が低いから、誰でも参入しやすい事業だったことがある。 しかも統一教会じゃないけれど、 事業の途中で事業主体や社名がコロコロ変わる、 問題が起きた時の責任が不明瞭になりがちだ。 そして、パネルも蓄電池も 様々な有害物質が含まれているということ。 中国の製品がほとんどだから、 これって耐用年数が来て破棄されるとき、 問題発覚だろうな。 昔、某大学院(中退しちゃいましたが) 建築工学に籍を置いていた頃は、 太陽光発電に日本も土俵際の片足を残していたように思う… 何れにしても、私が院を中退したころには、 中国が世界を制覇していた。 結局は中国に技術を取られ市場を取られた。 日本は製品が良くてもコスト高で撤退やむなしだったのね。 だから、太陽光発電設備の大量廃棄の問題が解決されないまま、 太陽光パネルの大廃棄時代の暗雲が垂れこめている。 当時から問題視されていた使用済み太陽光パネルの廃棄だ。 これって、ままならないだろうな。 まるで誰でももうかる商売のような触れ込みで 事業者をつのった太陽光電気事業。 素人の彼らがコストのかかる廃棄処理を行わずに、 有価物だとしてあちこちにパネル放置するときがやってくる。 世の常だ、不法投棄も増えるだろう。 そもそも太陽パネルに蓄電池は本来必修アイテムだ。 家庭用蓄電池の「法定耐用年数」はエコキュートと同じ6年。 すれば、蓄電池10年~15年の使用年数が

豚に翼    

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誰かが言っていた『幸福には翼がある』ってね。 私は幸福だった時、翼を見たわけじゃないし… ほんとうのことは分らない。 でも、豚には翼があった^^

これほど嫌悪感を感じた事は無い 

なにを言うのだ どんな風にも落ちないで 梢には小鳥の巣がある それでいい いいではないか       山村 暮鳥 ご主人は80歳ぐらいかな、、、 奥さんは77歳だとおっしゃっていた。 危なげにだが確かにここに生きている。 「うちはクーラーないのよ。 ずっとそれで暮らしてきたから全然平気なの」 ってね、そういって笑った。 バブルの頃だ、田舎の貧しい農家が、 耕すこともできない土地を笑える高値で販売。 ここは県の造成地だ。 田舎の浅い知識で都会ではバブルがはじけていたのに、 地方には遅れてやって来たお零れに、 「今売らなきゃ!」と慌てて開発された企画だ。 だから両手に余るほどの多くの問題をこの町は抱えている。 そう、県と農家の欲望の残骸がこの町にある。 冒頭のお二人がどのような人生を歩まれ、 この町に住宅を購入し、定住されたのかはわからない。 田舎にしては高額の分譲だったことは確かだ。 事情も異なるのだが、 大野市の火葬場で発見の遺体は近くの老夫婦 ~日記に記されていた「妻とともに逝く」~               2005年11月8日 の惨事を思い出した。 政治は何をしているのだろう。 カルト集団の力を借りて 国会議員になって、市会・県会議員になって、 君たちは何をしてきたのだ。 この町にもしっかりカルト集団が入り込んでいる。 売春の町の汚名を温存させ、遊戯の賭博を見逃している。 阿部氏殺害の事件の少し前、 名称を変更した統一教会のチラシが大々的に配られていた。 日本人の有名人を表に立て、公的機関の賛助が記されていた。 民族主義者ではないけれど、 韓国人や朝鮮人にこんなに嫌悪感を感じた事は無い。 この町にも日本国籍を持ち日本名を名乗る おおくの韓国、朝鮮の人が住んでいる。 この町選出の国会議員は暴力団(今も?)で韓国人の夫を持ち、 統一教会とお付き合いが深い。 彼らの権利を守って保護し、 青い空に浮かぶのは白く透き通る白夜月。 青い空から降ってきたのは忘れられた日本人の時間だ。