少し低めのトーンでノックして 


冬が来る前に玄関をノックする。

今はノックじゃなくて、ドアホーンだ。
ピンポーンってね。
けれど訪ねて欲しいのは人間じゃなくて晩秋。
夏はもう要らない。

ああ、ピンポーンじゃなく、
コツコツと少し低めのトーンでノックがいい。



昨日は、早朝の雨に少しひんやりとしたけれど、
昼間は38度を超える。
いくら何でも、秋を端折るなんてことはしないでほしい。
一番いい季節なのだから。人生の秋もね。

そう、近所の女性が「断捨離を考えなきゃ」という。
二人の娘を嫁がせてしまえば、彼女たちに迷惑はかけられないと言うのだ。
わたし自身、断捨離の考え方は好みではない。
ヨガの行法の「断・捨・離」、それを登録商標…ですって
(?
節操なく何でもごった煮の沖ヨガ(日本ヨガ)に始まり、日本に広まったヨーガ。
麻原を教祖とし始まったオウム真理教のヨガ教室も。
こうして日本で持て囃されるヨガの種類はラジャ・ヨガ、ハタ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、ジュニアナ・ヨガ、カルマ・ヨガ、マントラ・ヨガ、バクティー・ヨガ、クリヤー・ヨガ、クンダリーニ・ヨガなどなど…。
今じゃ妊婦ヨガ・子供ヨガ・フェイスヨガ・椅子ヨガ‥‥と、何でもヨガをつければ日本人は集まって来る。

友人がインド人と結婚した。当時インドを訪ねたとき、可笑しなポーズをとるヨガ文化などみられなかった。
そもそもインドを訪れ、座禅や瞑想に興味を持った欧米人が母国に持ち帰り、勝手にアレンジしたヨガのポーズ。そうニューヨークヨガと言うやつだ。
そもそも釈迦が行ったのは瞑想法のみで「○○のポーズ」などと言うものは存在しない。
ヨガに呼吸法が加わった修行僧の為の瞑想までがインドのヨガと言えるかもしれない。

でもさすが賢いインド人、これは観光資源になると言う事で、欧米からの逆輸入ではあるが、インドヨガナラティブを創り上げた。そもそもインドで、ヨガにポーズを取り入れるようになったのは20世紀の現代ヨガが普及してから。つまり体操を組みあわせ、アメリカで現代ヨガが生まれたということ。釈迦の瞑想とは異なるものだ。
当時、欧米人が自国生まれのヨガと知らず、インドの本場で習おうとやって来たが、インドにそのようなものは無かった。その後、これは観光の目玉になると判断したインドで広がることになる。


日本じゃヨガ連盟までこさえて、「あなたの“ココロ”と“カラダ”のバランスを整えます」だなんてね!
釈迦の世界観を宗教哲学と呼べば、学がつくと大げさだけれど、生きてりゃみんな何だかんだと哲学しているわけで、それは一時的なものじゃないし、インストラクター資格として与えられれば済むものでもない気がするんだけど…。まあ、インド人の損得勘定も加わって現代ヨガが存在するのだ。
おまけに日本じゃ『資格制度』まで創出して牛耳ってしまった。
まあ、多くの他の業界も政府に献金して協会を設立。資格制度を定着させれば年会費や授業料で儲かる仕組み。自他ともに儲けようとするシステムになるのだから、人間の欲は全てを歪めて行くんだね。

だから、ヨガ行法断・捨・離」なんて不要だ。そもそも誰かの勝手な解釈に過ぎない。
わたしの周りは、物じゃなく出来事でできていて、最初から周りには必要とか不要とか分けられる物など何も無い。
第一、恒久じゃないものを不要な物として整理して廃棄するなんて、支離滅裂だ。
全てはね、いろいろね拡散集合を繰り返したり、時に燃えたりして別のエネルギーに変化するだけ。

例えば燃やされて灰になって、物質が色んなエネルギーに変化しても、最後の情報はそこに閉じ込められて残っている。
ただ、元の情報を、そこから取り出すことができない。
恒久的に見える物、大切な誰かの愛の印のダイヤモンドだって、永いながい時間を掛けて炭素がダイヤモンドになって、やがて永いながい時間を掛け、崩れて灰に戻るまでの、ほんの一瞬に形を保っている、そんな過程の出来事であるってこと。
大事な貴方のダイヤモンドもいづれ形を失う。あなた自身もね。
すべてそんな過程の一瞬の出来事。

この頃毎日のように夢を見る。
訪ねてきた幼馴染がソファーに倒れこんだり、大きな爬虫類が何匹もわさわさと現れたり、手を差し伸べた障がい者に怒鳴られてしまった
いっぱいの難題につぶされそうな夢だ?

フロイトに分析してもらったら色々ありそうな心の状態だ。

でもね、全てを受け入れるから。
季節は巡り、風に飛んだ綿毛が新天地を定め、松虫や鈴虫は永い眠りにつく時が来る。
わたしがどんぐりのようにコロコロころがり落ち、池にはまってしまったら、「山が恋しい」と、どじょうを困らせないで、やがて雪が落ちてくるその雪をしっかり掴むから。

だから、秋になったらコツコツと、
少し低めのトーンでノックしてね。





コメント