自己家畜化


近頃、「草木を隣人として…。まあ何とかこの生きざまでやってゆけます。…」と心象風景を歌った良寛のように『たった独りの強さ』に徹した稀有な生き方がよいものに思え、人間社会の不快感や不信感を避け日々を過ごせたらと、ぼんやり思う。



南吉は「人間は皆エゴイストである。常にはどんな美しい假面をかむっていようとも、ぎりぎり決着のところではエゴイストである。エゴイストだということをよく知っている人間ばかりがこの世を造ったら、どんなに美しい世界が出来るだろうか…」と言うけれど。
さほどこの人間社会は甘くはないのだと歴史は語るし、エゴイストだという事の現実を自身に省みて理解している人間など滅多にいやしないようだ。
たとえアルトルイストの人間が集まっても、正義が追行されることとを保証するなどと言う事も有り得ないだろうな。

フロイトに言わしめれば「欲望、生理的な衝動、快楽を求め、不快や苦痛は避け、生理・心理的に必要な条件を満そうとする。そもそもそれが人間が本来持ち合わせている生きる生命力(本能的欲望)なのだ」とのこと。
この快楽原則は、人間の基本的な欲求と関連するもので、フロイトによればそもそも人間の心は快楽を追求する傾向があるらしい。



確かに『快楽原則』に対立する『現実原則』(社会的な制約や現実的な制約を考慮して行動することを意味)も提唱されていて、心の発達の過程で、現実原理を確立することこそが人の自我発達の最も強力な力となるらしいのだけれど…。この二つの原則は決して別物ではなく流動的につながっているものだ。

人類は理性や知性が育成され、動物的生命力をコントロールできるようになった(個人的には理解できていない)?
本当にそのようになったとは思えない…。
ちょい前、ボノボとチンパンジーの研究者が「自己家畜化」「人間家畜化」の話をしていた。
ボノボは「自己家畜化」が進んだ霊長類とされ、攻撃性が低く協調的な社会を築き、一方、チンパンジーは自己家畜化が進まず攻撃的で争い、オス中心の力による支配が強い社会を維持しているらしい。
また、人間社会も『自己家畜化』が進み、人工環境で穏やかで協力的な性質を持つ過程にあるそうだ。

例えばそうした過程で、ボノボのオスはチンパンジーのように他の個体に接触するようなディスプレイをせず、他個体は逃げまわることをしない。メスは母子・姉妹などと連合関係を結ぶことで、交尾を求めるオスに対し、拒絶することを最小限にとどめ、穏やで安全な暮らしを維持しているという。
これが「自己家畜化」のボノボ生態の平穏な進化なのかは疑問が一杯だ。

さらに、ボノボの大人はチンパンジーの大人よりも遊ぶ傾向にあり、子供っぽさをしめすらしい。
ああ、なるほど今日の人間社会にも根付き始めたのは、人間の自己家畜化(男子の女子化や中性化・大人のあどけない幼児化)だ。その現象は色白で赤い唇の美しい男子と幼さを魅力の武器にする大人女子達の社会らしい。本当に女子化や中性化・幼児化は平穏な社会を構築するのだろうか。

フロイトが示した快感や満足を得ようとする快楽原則に従う生存するための本能、その基本的な機能はDNAによって祖先から子孫へと連綿と継承されてきたこと、そして快楽原則に従い生存環境を構築してきたエゴは、自己認識や自尊心を形成する役割も果たした筈。
つまり人間にとって必要不可欠で自身を形成する上で果たす役割が大きいエゴ(人間にとって必要不可欠な防御機能である)は、自己家畜化にも必要不可欠ということになる(そう思うのだが…)。

そして、人間が長い時間を掛けて、穏やかな性質を遺伝子レベルや人工的環境レベルで『自己家畜化』をしながら進化(しかし進化は必ずしも進歩とは限らないのだが)。
研究者の言うボノボのような戦いの無い社会が実現すだろうか?
本当に人間は自己家畜化をして穏やかに進化しているのだろうか?





エゴの本質は連綿と遺伝子が繋ぎ、賢くなったのではなく、今だ脆弱な生き物に過ぎないし。
女性化や中性化社会に進化したことで平穏で穏やかな社会(研究者がボノボに代表している)が構築されるとは思えない。その裏のリスク、例えばボノボのメスはオスから逃げまわることをせず、母子・姉妹などと連合関係を結ぶことで、交尾を求めるオスに対し、拒絶することを最小限にとどめるのだなど、人間の価値観から言えば人身御供を差し出すことと変わりない。ここにはメス同士のもちろん一見中性化した強かなオスも加わり、潜在化した熾烈な力学が蠢いているはずだ。




ああ、思考を放棄して平穏な社会を構成したかもの人間界。期せずしてシンギュラリティは格好の土壌を得たのだ。





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