認知革命(ブログから移転)



「神様」というのはある意味の「虚構」なのです。
「神様」の存在を信じることはできます。
でも、実際に神様に会った人は
おそらくほとんどいないわけです。

ユヴァル・ノア・ハラリ





私たちは、実際に存在しないモノについて、話ができ、実際に存在しないモノについて、認識することができる。

つまり、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力。

五感では感じたことのないありとあらゆる種類の存在について話すことが出来るのはサピエンスだけなのだ。


こうしたサピエンスが持ち得た能力を「認知革命」と云う。

そして、良くも悪くも、この能力の結果、伝説・神話・神々・宗教が生まれ。伝説を共有する人々の間で協力し合う力が生まれることになったとハラリしは分析する。


そうだね、けれど、人間は動物的直感だけで生きる狭い暮らしが物足りなくて、もっと勢力範囲を広げ、世界を支配したくて、意思の疎通を図る「ことば」を発見してからというもの、言葉を駆使して思考し、そして他者に伝えようとした。やがて神様や伝説を共有することで多くを束ねることを覚えた。


  …、のだけれど…。


そこに生まれた現在は、グローバル化が進み、今やほとんどの国が一国だけでは経済が成り立たなくなり(確かに)、国際関係が緊密になった結果として、国家の独立性が弱まってきている。

そうした現状を鑑み、ハラリ氏は云うのだ。やがて、世界の「統一」が進んでいくってね。


ネアンデルタール人たちはせいぜい20〜30人くらいでしか協力できなかった。

ハグや肉体的交流だけでは、せいぜい200人くらいまでしか協力し合えないそうだ。

しかしホモ・サピエンスは言葉を使い認知革命を起こし、そして「神話」「宗教」を共有する術を手にした。

それにより、より大きな集団での協力を可能としたと云う。そしてそこに、イデオロギーの共有に重なる側面があるとハラリ氏は云う。


良い事か悪い事かは私には分からない。ただ根本に、欧米の「個人主義的合理主義が生んだ自由」がうごめいているってね、そんな思いが脳裏をよぎる?。


ハラリ氏が考える個人主義的合理主義の自由とゴータマ(釈迦)の自由とはかなり違う。
そのハラリ氏が、仏教の可能性を語っているのだ。
彼も感じるところがあったのかなと、そう思う。



仏教はおそらく、
人間の奉じる他のどんな信条と比べても、
幸福の問題を重要視していると考えられる。
2500年にわたり仏教は幸福の本質と根源について
体系的に研究してきた。
科学界で仏教哲学と、その瞑想の実践の双方に
関心が高まっている理由もそこにある

ユヴァル・ノア・ハラリ


私は、根本的にゴータマ・ブッダの世界観は、人々が捉える宗教というジャンルのものではないと思っている。

そもそもブッダは
「私は神ではない。私の死後、私を拝んではいけない。君は君の心を拠り所に、自身に問いなさい」
ってなことを弟子のアンダーダに伝えている。
一人ひとりがする哲学(生きていくことそのもの)を私もするなり、という世界なのだとわたしは解釈している。
別の世界観から云えば、西田の
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾は行くなり」
なのかも…?

だからブッダの神髄は、世界を統一するためのイデオロギーでも伝説でも、ましてや中国や各地に渡たって、日本人や多くの国の人々が認知するに至る仏教とは、似ても似つかぬもので、非なるものどころじゃなく、全く別ものなのかもしれない。

ホモ・サピエンスは認知革命で「神話」「宗教」を共有し、より大きな集団での協力が可能になったのは確かだけど…。
しかし、宗教にはイデオロギーの共有のような側面があるとする彼の、この考え方の部分は、わたしの理解できる範疇からズレる。
宗教にはイデオロギーの共有のような側面があるとするのは、あくまで絶対神をいただく一神教の宗教観から出てくる思考だ。
本質は宗教ではなく、個々が生きること(哲学)そのもの、ズレはそこにあるのかも知れない。
もちろんこれらも認知革命が可能にしたことなのだろう…。
きっとね。

勿論あくまで私個人の論。



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