流れに沿うて 歩いてとまる



尾崎放哉
(おざき ほうさい)








4~5年前だった。
差し込む朝の光を手の甲に受け豆をカリカリ、珈琲を淹れる。
近頃に騒々しいばかりの世の中に嫌気がさすときも増えた。
人や事物それぞれに纏わりついて存在する脳内時間というものだろうか。

珈琲を注ぎながらTVのスイッチを入れた時だった。
ディスプレイに映し出されたのは背丈と肩幅の比率がほぼ三対一、
前かがみの小さな身体を左右に揺らし、
扉から差込む光に消えていく老婆の姿だった。
逆光の中へと消えていく老婆に、ナレーションが演出っぽくかぶる。

「今日、彼女に出所の許可が下りた。
些細な犯罪で入所している高齢者たち、彼らの再犯率は高い…」
逆光でホワイトアウト状態になった場面で、扉は音もなく閉じられた。
全てが管理された秒刻みの刑務所暮らしは、限りなく退屈であり、
きっと鉄瓶ではなく電気ポットのお湯が沸くだけの
無機質な毎日が積み重なり過ぎていったに違いない。
そこに、待てど暮らせど珈琲が香ることはなかっただろう。
一言も発すること無く消えていった老婆の刑務所の時間だ。
しかしそう断定してしまうにはあまりに切ないものが残った。

きっと彼女にも相対的に纏わりつく時間の流れがあったに違いない。

私はカップを手にすると珈琲の香りを確かめ、
そう、例え時間の流れに従って管理される刑務所であっても、
そこに彼女が生きた時間の匂いが纏わりついたはずだと思った。
多くの人に待ち遠しい日や時というものがあるなら、
それは受刑者にもあるだろう。
それこそが刑を終える出所の日である可能性は高い。
彼らの一人一人のそうした不確実だが待ち遠しいという感覚の中で、
うらぶれ異土の乞食となった今、
故郷の匂い、それは朝食に出た糠漬けが、
子供の頃、台所にしゃがむ母を思い出させたかも知れない。
そしてそこにこそ「秒」という単位に計測される時間ではない
老婆だけの脳内時間が流れたのだ。

扉が閉じられた後のあの型通りなナレーションが耳障りに残っていた。
彼らを嫌悪する声が聞こえてきた。
「私たち納税者はあなた達を養ったけれど、
あなた達は何をしてくれたと言うのか」
例え至れり尽くせりであろうと刑務所暮らしは、
あなたが目くじら立てるようなものではないだろうと思うのだが。
所持品検査や身体検査の実体が現在もさして変わらないだろうし、
施設に足を踏み入れた瞬間から人権はないのだ。
食事や入浴、排便など生きる基本的動作も監視され、
人としての自負心などゴミ箱に捨てなければならない。
閉鎖的空間だから被収容者同士の陰湿ないじめは当然の事、
刑務官の嫌がらせもあるに違いない。
まして、無条件に身を置くことになる刑務所の、
刑務官らの不祥事も枚挙に暇がないのだ。
彼らの精神が安定した健全を保てる保証など全くないのだ。
些細な罪状であっても、
社会が高齢受刑者に対して決して甘くはない事を
彼ら本人が知ないはずはない。そう、例え認知症であってもだ。

きっと、纏わりつく脳内時間が存在する。
そう思いながら私はぬるくなった珈琲を啜った。





コメント