道草   


春、庭の北側に野菊が咲いていた。

野菊はどこにでも咲いている。嫁菜(ヨメナ)や野紺菊(ノコンギク)、サツマシロギクなどがあり、それらまとめて『野菊』の俗称でよばれている。

なかでも嫁菜は、3月ごろの若葉を摘んで食用に用いられていたらしい。おひたしや胡麻和え、ヨメナご飯、天ぷらにしても美味しいようだ。


ほんとに美味しいのだろうか、食しても大丈夫だろうか…?

いつもならネット検索なのだが、ちょい遊び心で購入した『牧野日本植物図鑑(古書です…)』を開く。

「ヨメナはこの類の中では最も美味でしかもやさしく美しい…」

ここまで辿り着くのに費やした時間に感じたのは心地よい疲労感だ。

紙のページをめくりながら追う文字は、脳内時間がフィットする。一言で言い表せないのだけれど、流れる時間が私の脳ミソには丁度良い緩さだ。


そう言えば近頃、明細書も請求書も領収書もペーパーレスだし。重い辞書を抱えた学生時代は遥か昔。もちろん子供たちの学びの場もペーパーレス。
庶民の世界もSNSが情報源だから、観光も料理も漫画等々、生活のほとんどペーパーレス。怖いのはSNSが大衆知識の全てを占め、特に若い人たちは五大新聞などに関心などない。ネット新聞やネット辞書すらも縁遠い。

まあ、ご近所の年配のおばさまたちも若い人の後追いで、スマフォ片手にX(旧Twitter)、Instagram、Facebook、LINE、YouTube、TikTokを荒し回る。そこはジャーナリストならぬインフルエンサーが主導権を握るファン争奪戦があって、ネット友達の間で煮詰まった情報源が闊歩するから仕方がない。

ああ、キャッシュレスも当たり前に、どこもかしこも神は消えた。
もとい紙が消えたまたまたもとい、神は消えたのではなく神は死んだのだったか)

そう言えば先週末、新しくなったという関ケ原の記念館へドライブをした。
昔、こうした資料館に並んでいたパンフレットや案内チラシはなくなり、全てスマフォにアプリをダウンロードして情報にアクセスと言う手法になった。ここもペーパーレスだ。スマフォを使わない人たちはどうしているんだろう。
それにしても、フェイクニュースどころじゃなくて、おばさまたちの情報社会はTVとSNSの友達世界で偏った情報で完結する。
ましてや、アルゴリズムの偏見が重層していることなどへの関心は希薄だ。

アルゴリズムの偏見でピュリッツァー賞を受賞した報道写真「ナパーム弾の少女」が削除されたこともあったし、アルゴリズムが原因で起こったオランダの大規模冤罪事件もあった事もあったのにね…。

わたし程度であっても、AIを使ったりしての検索結果に怖さを感じ始めているし。納得できないものも増えた。他のAIを使用したり、聞き返したりすると、「それ以上は答えられません。お察しください…」ときた。

学者でも研究者でもないから、人工知能シーク君に手を出すのは躊躇。何だか思想コントロールされそうだ…?  
与えられた目的を達成するための処理手順と言うか、コンピュータが1つのアルゴリズム内の1つの命令だけを実行するものと仮定して議論され、明快な処理に計算された回答(?)に辿り着く。便利なようだけれど、なんだか望まない方向に誘導されている気がするこの頃だ。私程度の緩い脳じゃ、AIやアルゴリズムに良いように振り回されても当たり前かな…?なので、、、、、

なので、

ささやかなささやかな日常のクエスチョン、リアル図鑑のページをめくることにしてみた。図鑑の使用方法に戸惑い、途中で飛び込んでくる情報に目移りしながら、それでも気ままにペーパーの中を道草をして回り道。辿り着いたささやかなヨメナ情報に感動。

フムフム、なるなる。。。

アルゴリズムは膨大な計算の高速処理が可能だけど、処理時間が大幅に短縮できたとしても、より効率よく、よりすばやく計算するアルゴリズムのほうが優れていることになる世界より。
知識が増えたという喜びじゃなく、なんとなく感動。

寄り道とか道草っていいもんだ。


そうか、食用にできるヨメナは中部以西にしか分布しないのだ。私が住む地域は丁度その境界になるということ。
つまり問題は、この地域ではヨメナにとてもよく似ているノコンギクが咲き、そのノコンギクは食べちゃいけないのだ。

多分北のフェンスに咲いた野菊はヨメナだったと思っているのだけど…、多分きっと…、そう思うのだけれど…。

博学ならず薄学の私には見分けられない。

でも、あの時の虫食いのありさま(葉がいっぱい食べられていました)は結構凄くて、きっと虫たちも美味しいと思ったに違いないのだ。

近所で白菜を育てていた人が虫に食われた野菜を手に「これはね、美味しい証拠。美味しいから虫に食われるんだ…」ってね、そう言っていた。

そうだ。

来年の春先に若菜摘みだ!!!




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