ジレンマ
人生には転機があるものだ。 一体何をやっているのだろうと、空虚感が大きすぎるこの頃。 往々に、人生とはそんなものかもしれない。 もちろん私事の人生であって、「広義の人生」を論じるものではない。 けれど幾らかの人も何らかの空虚を抱えていたり、抱えた記憶があり、 そうした空虚感を癒そうと代替を何かに求めることもあるだろう。 色々な意味で思い上がりが全てが台無しになる事態を目の当たりにし、やっと見つけた代替との 距離感も気づけば埋まることもなく、 内面の空しさは存在し続けるのだ。 恋人との関係に例えれば、心理的距離が近くなればなるほど 愛と憎しみの相反する葛藤がつのる「ヤマアラシのジレンマ」のように。 そう、フロイトが恋人の心理状況を比喩した 『随感録/ショーペンハウアー』に収録されている逸話だ。 ※ やまあらしの一群が、冷たい冬のある日 お互いの体温で凍えることを防ぐためにぴったりくっつきあった。 だが、まもなくお互いに刺の痛いのが感じられて、また別れた。 温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされる。 やまあらし達は近づいたり離れたりを繰り返し やっと、ちょうど良い距離を見つける… こうして彼らがついにあみだした中くらいの そして共同生活がそれで成り立ちうるほどの隔たりというのが 節度ある上品な風習(社会でのお付き合いのあり方)だ。 この隔たり(距離感)のおかげで、 おたがいに温めあおうという欲求は 不完全にしか満たされないけれど、 かわりに刺でさされる痛さは感じないで済むのだ。 面白い例えだ。 実は長い間、逸話はこれで終わりだと思っていた。 しかし改めて本を手にすると、話には続きがあった。 …、しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は 面倒をかけたりかけられたりしたくないために むしろ社交界から遠ざかっているのである。 なるほどね、もちろん私にとって物質的に 社交界は遠い世界のことだが、 逸話の最後に社交界を離れ、孤独を受け入れたヤマアラシがいたのだ。 昔、銀座から東銀座への地下通路に、 シャッターが下りるころやって来る幾人かの...