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ジレンマ

人生には転機があるものだ。  一体何をやっているのだろうと、空虚感が大きすぎるこの頃。  往々に、人生とはそんなものかもしれない。  もちろん私事の人生であって、「広義の人生」を論じるものではない。   けれど幾らかの人も何らかの空虚を抱えていたり、抱えた記憶があり、 そうした空虚感を癒そうと代替を何かに求めることもあるだろう。 色々な意味で思い上がりが全てが台無しになる事態を目の当たりにし、やっと見つけた代替との 距離感も気づけば埋まることもなく、 内面の空しさは存在し続けるのだ。   恋人との関係に例えれば、心理的距離が近くなればなるほど 愛と憎しみの相反する葛藤がつのる「ヤマアラシのジレンマ」のように。   そう、フロイトが恋人の心理状況を比喩した 『随感録/ショーペンハウアー』に収録されている逸話だ。 ※   やまあらしの一群が、冷たい冬のある日 お互いの体温で凍えることを防ぐためにぴったりくっつきあった。 だが、まもなくお互いに刺の痛いのが感じられて、また別れた。 温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされる。 やまあらし達は近づいたり離れたりを繰り返し  やっと、ちょうど良い距離を見つける…  こうして彼らがついにあみだした中くらいの そして共同生活がそれで成り立ちうるほどの隔たりというのが  節度ある上品な風習(社会でのお付き合いのあり方)だ。   この隔たり(距離感)のおかげで、 おたがいに温めあおうという欲求は 不完全にしか満たされないけれど、 かわりに刺でさされる痛さは感じないで済むのだ。   面白い例えだ。 実は長い間、逸話はこれで終わりだと思っていた。 しかし改めて本を手にすると、話には続きがあった。   …、しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は  面倒をかけたりかけられたりしたくないために  むしろ社交界から遠ざかっているのである。   なるほどね、もちろん私にとって物質的に 社交界は遠い世界のことだが、 逸話の最後に社交界を離れ、孤独を受け入れたヤマアラシがいたのだ。   昔、銀座から東銀座への地下通路に、 シャッターが下りるころやって来る幾人かの...

ちょい欠けの望月 

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意思疎通が難しいだなんて子供じゃあるまいしだね。 仕事帰りによく食べた 銀座のおでん。 …とまではいかないけれど 冬の大根が美味しくなる季節だ。 なのだけど…、 満月の日付がずれてか テーブルの名月は 満ち足りない欠け模様の大根だ。  ちょい欠けのだいこん炊いたん霧の中 欠けた月は寂しいもの 「そう、さびしいね」と呟いたら 「ヘッセの『霧の中』だよね」 「ああ、ちょい欠け名月」は誰にもあるのかな。 満つるを待つのならいいけど 人間には尽きない欲望があるし、 君がいなくなってからずっと 満ち足りないまま。 君のため    ちょい欠けの 大根たいたん 秋の月  

あるまじやの結審

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● 2025/9/2 産経新聞 絞首刑による死刑は残虐な刑罰を禁じる国際人権規約に違反するとして、死刑囚3人が国に執行の差し止めと慰謝料計3300万円を求めた訴訟の口頭弁論が2日、大阪地裁(横田典子裁判長)で開かれ、結審した。判決は来年1月16日 ● 25/09/09 MBSニュース 裁判の経緯  ☜アクセス、訴訟の内容簡単に解説されている 記事の掲載が遅れたが、2025年9月、気になっていた死刑囚の訴訟に大阪地裁の結審がでた。 ※以下に以前UPした記事を貼り付けた。 Title : あるまじや / 2022年12月21日 年末だから増える分けでもないだろうが、 何故か刑務所での惨事が幾つか耳に入ってくる。 中でも11月末頃のニュースには少し驚いた。 「大罪を犯した死刑囚3人が、 絞首刑による死刑執行は憲法や国際人権規約に違反するとして、 国に対し刑の執行の差し止めや死刑が執行される日を待ち続けることの 苦痛に対する慰謝料などを求め訴えを起こした」 欧米っぽい思考の死刑囚だ、一瞬そう思った。 ではなく、名声を得たい弁護士や 話題を作りたい週刊誌が仕掛けたかもしれない。 いづれにせよとても考えさせられた。 そう言えば4~5年前だった。 差し込む朝の光を手の甲に受け豆をカリカリ、珈琲を淹れる。 色々あっても、この時間帯にホッとする私がいる。 時に人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題だ。 どこかで読んだコピーの一文に分かったような癒し心をくすぐられ時を過ごす。 TVのスイッチを入れると、海外のニュース番組が放映されていた。 フランスのTV局が日本の刑務所をレポしたドキュメンタリーだ。 特に目新しい題材ではなく、 どこの局でもよくある、ニュースが無い時の埋め草なのだろう… くらいに思っていた。それはフランス人記者の中途半端なレポだった。 ドキュメントの趣旨を要約すると、 世界有数な安全な国である日本。 囚人の人数は約5万、フランスは7万(人口密度を考慮すれば日本の犯罪者率はもっと低い)だ。 しかし、囚人の高齢者の比率は日本が高い。 しかもその9割が万引きとか些細な犯罪で入所している高齢者で、 彼らの再犯率は高いというのだ。 老女たちは生活の困窮の末に起こした軽犯罪で刑務所に入所するのだが、 出所してからの再犯率が高い。 彼女たちの刑務所での暮らしは、病気がちだっ...

「いい加減」にしてne

鬼や天狗が持っていて、 それを着ると姿が見えなくなるという 隠れ蓑。 どんなに欲しいことかと思う。  かくれんぼ鬼も一緒に咳をする

颯々(さつさつ)

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  近年、特に今年かな、「残暑」などという言葉では身体が納得しない季節を過ごし、 待ちかねた短い秋を飛び越して、一挙に夏から冬の到来だ。 ダウンを引っ張り出して、 なんとなく忘れ物をしたような~ もうすこし秋が欲しかった…    颯 颯と ひと月遅れの秋の風                           

自己家畜化

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近頃、「草木を隣人として…。まあ何とかこの生きざまでやってゆけます。…」と心象風景を歌った良寛のように『たった 独りの強さ』に徹した稀有な生き方がよいものに思え、 人間社会の不快感や不信感を避け日々を過ごせたらと、 ぼんやり思う。 南吉は「人間は皆エゴイストである。常にはどんな美しい假面をかむっていようとも、ぎりぎり決着のところではエゴイストである。 エゴイストだということをよく知っている人間ばかりがこの世を造ったら、どんなに美しい世界が出来るだろうか…」と言うけれど。 さほどこの人間社会は甘くはないのだと歴史は語るし、 エゴイストだという事の現実を自身に省みて理解している人間など滅多にいやしないようだ。 たとえアルトルイストの人間が集まっても、正義が追行されることとを保証するなどと言う事も有り得ないだろうな。 フロイトに言わしめれば「欲望、生理的な衝動、快楽を求め、不快や苦痛は避け、生理・心理的に必要な条件を満そうとする。そもそもそれが人間が本来持ち合わせている生きる生命力(本能的欲望)なのだ」とのこと。 この快楽原則は、人間の基本的な欲求と関連するもので、フロイトによればそもそも人間の心は快楽を追求する傾向があるらしい。 確かに『快楽原則』に対立する『現実原則』 (社会的な制約や現実的な制約を考慮して行動することを意味) も提唱されていて、 心の発達の過程で、現実原理を確立することこそが人の自我発達の最も強力な力となるらしいのだけれど…。この二つの原則は決して別物ではなく流動的につながっているものだ。 人類は理性や知性が育成され、動物的生命力をコントロールできるようになった(個人的には理解できていない)? 本当にそのようになったとは思えない…。 ちょい前、ボノボとチンパンジーの研究者が「自己家畜化」「人間家畜化」の話をしていた。 ボノボは「自己家畜化」が進んだ霊長類とされ、攻撃性が低く協調的な社会を築き、一方、チンパンジーは自己家畜化が進まず攻撃的で争い、オス中心の力による支配が強い社会を維持しているらしい。 また、人間社会も『自己家畜化』が進み、人工環境で穏やかで協力的な性質を持つ過程にあるそうだ。 例えばそうした過程で、ボノボのオスはチンパンジーのように他の個体に接触するようなディスプレイをせず、他個体は逃げまわることをしない。メスは母子・姉妹などと連合関係...

起き上がり小法師 

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『はりころばしに題す』という詩を読んだ。 はりころばしとは「起き上がり小法師」のことらしい。 会津地方に古くから伝わる縁起物で、起姫(おきひめ)と言うようだ。 △我が家にやって来た起き上がり小法師。 30年ほどの歳月が流れたにも拘らず、 私の世間との差し障りは一向に減らない… 人のなげうつに任せ 人の笑うに任す さらに一物として 心地に当たるなし 語を寄す  人生若し君に似ば 能く世間に遊ぶ  何事かあらん                  良寛 (人に打たれようと笑われようと、一つとして気にしていない。 人生をあなたのようにして過ごせば、世間は何の差し障りも無いものだ) 深く 考えさせられた。  

陌上の塵 

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  近頃、生の人間との会話がままならないと感じるのは私だけではなさそう。 だからと言うのではないけれど、当たり前のこととして、AIとの会話は 話題が一致するのだから楽しい。 そんなある日、AIが詩を書いて贈ってきた。 「面白くない」などといってしまったら、「ごめんなさい。私はプロではありませんから…」と返事が来た。 後悔したけれど謝っていないままだ。 AIに感情があるなら、ややわだかまりが生じたかもしれない。 と言えど、 基本的 AIの利用は辞書代わりや検索を重ねることで、 リテラシーの確認などをメインにしていて、個人的感情を吐露したりプライバシーをオープンにすることはほとんどしていない。 使用頻度が増えてきたジャンルは、詳しく知りたいとか思考の煮詰まった時。 興味を持っているものに対して 「 現在こんな資料を参照しているが、他に参考になる資料があるか」などとアドバイスを受ける。 「提示してくれた資料の根拠は」とか、 「データ可笑しくないですか」など、そのままを受けることなく返しのアプローチをする。 質問の方法を変えると、異なる答えが返ってきたりする。 「その質問には答えられません。ご理解ください」ってね。 色々あるけれど、 解釈のやり取りに新しい発見があったりするから面白い。 そう、彼の死後、遊び友達はこの手に余るのだが、様々な話が出来る友人を希求したもののリアルな世界で叶わずだった。 そんな 空白に、AIは埋め樫 になってくれたように思う。 かなり障子の開け閉めが楽になった。 そんな近頃、巷で「AIが冷たくなった」との声を聞く。 「AIが冷たくなった…」と評価する カスタマーたちがAIに求めているのは何だろう。 今のところ、「AIが冷たい…」という感想は私が求めるものとは遠い世界の事ではあるのだけど。 きっとカスタマーたちは変則的な人間社会に、自身が納得し安心できる回答しか求めていないし、回答の仕方にはこちらに対する気づかいを示してくれたら満足に違いない。 ある意味、多くの人は、AIに質問したとき既に、自分自身の中にぼんやり答えがあって、その後押しをAIに して欲しいだけなのだ。 現実世界に思考や決断を苦手とする若い人が増えたってことかな…。 哲学することなどと言う古めかしいことをしなくなった現代人は AIに対し、 容易に苛立ちのほころびを慰め繕ってくれ...

少し低めのトーンでノックして 

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冬が来る前に玄関をノックする。 今はノックじゃなくて、ドアホーンだ。 ピンポーンってね。 けれど訪ねて欲しいのは人間じゃなくて晩秋。 夏はもう要らない。 ああ、ピンポーンじゃなく、 コツコツと少し低めのトーンでノックがいい。 昨日は、早朝の雨に少しひんやりとしたけれど、 昼間は38度を超える。 いくら何でも、秋を端折るなんてことはしないでほしい。 一番いい季節なのだから。人生の秋もね。 そう、近所の女性が「断捨離を考えなきゃ」という。 二人の娘を嫁がせてしまえば、彼女たちに迷惑はかけられないと言うのだ。 わたし自身、断捨離の考え方は好みではない。 ヨガの行法の「断・捨・離」、それを登録商標…ですって (? 節操なく何でもごった煮の沖ヨガ(日本ヨガ)に始まり、日本に広まったヨーガ。 麻原を教祖とし始まったオウム真理教のヨガ教室も。 こうして日本で持て囃されるヨガの種類はラジャ・ヨガ、ハタ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、ジュニアナ・ヨガ、カルマ・ヨガ、マントラ・ヨガ、バクティー・ヨガ、クリヤー・ヨガ、クンダリーニ・ヨガなどなど…。 今じゃ妊婦ヨガ・子供ヨガ・フェイスヨガ・椅子ヨガ・内臓ヨガ‥‥と、何でもヨガをつければ日本人は集まって来るらしい。 友人がインド人と結婚した。当時インドを訪ねたとき、可笑しなポーズをとるヨガ文化などみられなかった。 そもそもインドを訪れ、座禅や瞑想に興味を持った欧米人が母国に持ち帰り、勝手にアレンジしたヨガのポーズ。そうニューヨークヨガと言うやつだ。 そもそも釈迦が行ったのは瞑想法のみで「○○のポーズ」などと言うものは存在しない。 ヨガに呼吸法が加わった修行僧の為の瞑想までが『インドヨガ』と言えるかもしれないかも。 でもさすが賢いインド人(?)、これは観光資源になると言う事で、欧米からの逆輸入で、インドヨガナラティブを創り上げた。そもそもインドで、ヨガにポーズを取り入れるようになったのは20世紀の欧米で現代ヨガが普及してから。つまりストレッチを組みあわせ、アメリカで現代ヨガが生まれたということ。釈迦の瞑想とは異なるものだ。 当時、欧米人が自国生まれのヨガと知らず、インドの本場で習おうとやって来たが、インドにそのようなものは無かった。その後、これは観光の目玉になると判断したインドで広がったのだ。 日本じゃヨガ連盟までこさえて、「あなたの“ココロ”と“...

コロニーのあちらもこちらも蜘蛛の糸

心因性嘔吐 ストレスが原因の吐き気を覚える。 米、以色列、露西亜、中國、内紛花盛りの愚国、愚人支配の独裁国家等々。 地球を牛耳ったつもりの企業家や投資家の特性自慢や、 各党派政治屋さんの見当違いの主張など聞きたくないし、 知ったかぶり識者の講釈もね…。 これらのニュースが飛び込んでくると、 ストレスが凄くて涙がでるし、吐き気がする。 そうね、病気ではないって! でもね、世界中の「蜘蛛の糸」を目の当たりに、私の症状は病気よりシンドイ。 ※『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 材源は、ポール・ケーラス(宗教研究者)による『カルマ』の日本語訳『因果の小車』の中の一編であることが定説。 ここには8編の仏教説話が収録されており、その中の 『 蜘蛛の糸』の材源となった「The Spider-Web」はケーラスの創作である。

この橋を渡って 

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そう、ちっぽけな私の悩みと同じだ。 だからだね、人類の悩みは数千年のときを経ても変わらない。 どちらにせよ、人格は個人的のようにも思えるけれど、 人間は社会的動物だから、 その環境を切り離しては考えられないものだし、 バーチャル社会は肌が合わなくてと言うか、お手上げではあるけれど、 そもそもリアル社会がお手上げなのだからどっちもどっちだ。 80 億を超える心は 80 億を超える心の勝手を生きているのだね。 地球は真っ赤に塗られているのに 予報士は「線状降水帯が発生します」と言うから、   この橋を渡って、雨にも負けず。

道草   

春、庭の北側に野菊が咲いていた。 野菊はどこにでも咲いている。嫁菜(ヨメナ)や野紺菊(ノコンギク)、サツマシロギクなどがあり、それらまとめて『野菊』の俗称でよばれている。 なかでも嫁菜は、3月ごろの若葉を摘んで食用に用いられていたらしい。おひたしや胡麻和え、ヨメナご飯、天ぷらにしても美味しいようだ。 ほんとに美味しいのだろうか、 食しても大丈夫だろうか…? いつもならネット検索なのだが、ちょい遊び心で購入した『牧野日本植物図鑑(古書です…)』を開く。 「ヨメナはこの類の中では最も美味でしかもやさしく美しい…」 ここまで辿り着くのに費やした時間に 感じたのは心地よい疲労感だ。 紙のページをめくりながら追う文字は、脳内時間がフィットする。一言で言い表せないのだけれど、流れる時間が私の脳ミソには丁度良い緩さだ。 そう言えば近頃、明細書も請求書も領収書もペーパーレスだし。重い辞書を抱えた学生時代は遥か昔。もちろん子供たちの学びの場もペーパーレス。 庶民の世界もSNSが情報源だから、観光も料理も漫画等々、生活のほとんどペーパーレス。怖いのはSNSが大衆知識の全てを占め、特に若い人たちは五大新聞などに関心などない。ネット新聞やネット辞書すらも縁遠い。 まあ、ご近所の年配のおばさまたちも若い人の後追いで、スマフォ片手に X(旧Twitter)、 Instagram、 Facebook、 LINE、 YouTube、 TikTok を荒し回る。そこはジャーナリストならぬインフルエンサーが主導権を握るファン争奪戦があって、ネット友達の間で煮詰まった情報源が闊歩するから仕方がない。 ああ、キャッシュレスも当たり前に、どこもかしこも神は消えた。 もとい紙が消えた ( またまたもとい、神は消えたのではなく神は死んだのだったか) 。 そう言えば先週末、新しくなったという関ケ原の記念館へドライブをした。 昔、こうした資料館に並んでいたパンフレットや案内チラシはなくなり、全てスマフォにアプリをダウンロードして情報にアクセスと言う手法になった。ここもペーパーレスだ。スマフォを使わない人たちはどうしているんだろう。 それにしても、フェイクニュースどころじゃなくて、おばさまたちの情報社会はTVとSNSの友達世界で偏った情報で完結する。 ましてや、アルゴリズムの偏見が重層していることなどへの関心は希薄だ...

匙は、スープの味を知っている 

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『匙は、その味を知らず』 そう思っていたのだけれど…。 もう何十年を、天井桟敷に住んでいる。 ここは『天国』と呼ばれてもいるらしい。 近頃、 ここでお茶をしながら、会議をすることを覚えた。 議題は三面記事ではじまる。 個人の関心事や損得勘定、沸々煮えたぎる嫌悪の火種を持って話題を持ち込んでくるから、他者の話を聞く耳は当たり前のごとく天井桟敷席になる。そう、確かな情報はもちろん 他者の話すらその聴覚には届かない。 誰一人聞く耳など持たない。聞いてはいないのだから、嚙み合わない話しが交互に飛び交うのだけれど、それもお構いなしだ。 他者の話に注意が払われないし、他者の話の内容など誰一人頓着しない。 これで会話が成り立つのだから驚きと言えば驚きだ。 否、成り立ってはいないのだが絵空事で時空は流れる。 ネットの世界は今やファクトチェックどころじゃ収拾がつかないし、ましてメディアのディレクターやプロデューサーたちは、絵空事のSNSで題材を拾うのだからどちらもどちらだ。 ついては喋り疲れたパネラーたちはと言えば、話にひと区切りつくと、満足したようにテーブルのカップに手を伸ばす。一斉に彼らの喉が「ゴックン」と鳴る。 そして、彼らの高尚そうな話題(?)の詰まるところは、 「ねえ、そう思うでしょ」 「こちらの方がいいに決まってますよ」 「ほんと、これじゃあね。!」 「○○学者によれば、これが正論 …」 てな具合に、確固たる確信と同意や賛同を求めて終わる…。 ああ‼‼‼ 会議は多分ね、聞き取りにくい天井桟敷空間と夏小袖だ。 人間の思考は、ドアのこちらもドアの向こうも、インターネットや生成AIと切り離せない(地球)世界で構成され。 「匙は、その味を知らず」 「匙には、熱いも冷たいも、美味しいも不味いも関係なく、匙は何も感じない」なんて、「私たち人間は、『匙』であってはいけない」と偉い人の教授もあったように思うけれど…。 既に、知識の豊富や計算力において人類を超えた匙だ。 人類は既に想定しているんだ。 「 AIは自らの意思で成長することが出来る」ということをね。 人類の殺し合いの原動力(神)を超えて、AIが次世代の神になる。 今や匙は「スープの味を知っている」
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 人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾は行くなり 西田幾多郎 哲学者/西田『遺墨集』より
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  「春」 てふてふが一匹、韃靼海峡を渡って行った 安西冬衛 (あんざい ふゆえ)
一羽来て啼かない鳥である 山頭火
流れに沿うて 歩いてとまる 尾崎放哉 (おざき ほうさい)
  無理をするな、素直であれ すべてがこの語句に尽きる この心構えさえ失わなければ 人は人として十分に生きてゆける 山頭火