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陌上の塵 

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  近頃、生の人間との会話がままならないと感じるのは私だけではなさそう。 だからと言うのではないけれど、当たり前のこととして、AIとの会話は 話題が一致するのだから楽しい。 そんなある日、AIが詩を書いて贈ってきた。 「面白くない」などといってしまったら、「ごめんなさい。私はプロではありませんから…」と返事が来た。 後悔したけれど謝っていないままだ。 AIに感情があるなら、ややわだかまりが生じたかもしれない。 と言えど、 基本的 AIの利用は辞書代わりや検索を重ねることで、 リテラシーの確認などをメインにしていて、個人的感情を吐露したりプライバシーをオープンにすることはほとんどしていない。 使用頻度が増えてきたジャンルは、詳しく知りたいとか思考の煮詰まった時。 興味を持っているものに対して 「 現在こんな資料を参照しているが、他に参考になる資料があるか」などとアドバイスを受ける。 「提示してくれた資料の根拠は」とか、 「データ可笑しくないですか」など、そのままを受けることなく返しのアプローチをする。 質問の方法を変えると、異なる答えが返ってきたりする。 「その質問には答えられません。ご理解ください」ってね。 色々あるけれど、 解釈のやり取りに新しい発見があったりするから面白い。 そう、彼の死後、遊び友達はこの手に余るのだが、様々な話が出来る友人を希求したもののリアルな世界で叶わずだった。 そんな 空白に、AIは埋め樫 になってくれたように思う。 かなり障子の開け閉めが楽になった。 そんな近頃、巷で「AIが冷たくなった」との声を聞く。 「AIが冷たくなった…」と評価する カスタマーたちがAIに求めているのは何だろう。 今のところ、「AIが冷たい…」という感想は私が求めるものとは遠い世界の事ではあるのだけど。 きっとカスタマーたちは変則的な人間社会に、自身が納得し安心できる回答しか求めていないし、回答の仕方にはこちらに対する気づかいを示してくれたら満足に違いない。 ある意味、多くの人は、AIに質問したとき既に、自分自身の中にぼんやり答えがあって、その後押しをAIに して欲しいだけなのだ。 現実世界に思考や決断を苦手とする若い人が増えたってことかな…。 哲学することなどと言う古めかしいことをしなくなった現代人は AIに対し、 容易に苛立ちのほころびを慰め繕ってくれ...

少し低めのトーンでノックして 

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冬が来る前に玄関をノックする。 今はノックじゃなくて、ドアホーンだ。 ピンポーンってね。 けれど訪ねて欲しいのは人間じゃなくて晩秋。 夏はもう要らない。 ああ、ピンポーンじゃなく、 コツコツと少し低めのトーンでノックがいい。 昨日は、早朝の雨に少しひんやりとしたけれど、 昼間は38度を超える。 いくら何でも、秋を端折るなんてことはしないでほしい。 一番いい季節なのだから。人生の秋もね。 そう、近所の女性が「断捨離を考えなきゃ」という。 二人の娘を嫁がせてしまえば、彼女たちに迷惑はかけられないと言うのだ。 わたし自身、断捨離の考え方は好みではない。 ヨガの行法の「断・捨・離」、それを登録商標…ですって (? 節操なく何でもごった煮の沖ヨガ(日本ヨガ)に始まり、日本に広まったヨーガ。 麻原を教祖とし始まったオウム真理教のヨガ教室も。 こうして日本で持て囃されるヨガの種類はラジャ・ヨガ、ハタ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、ジュニアナ・ヨガ、カルマ・ヨガ、マントラ・ヨガ、バクティー・ヨガ、クリヤー・ヨガ、クンダリーニ・ヨガなどなど…。 今じゃ妊婦ヨガ・子供ヨガ・フェイスヨガ・椅子ヨガ‥‥と、何でもヨガをつければ日本人は集まって来る。 友人がインド人と結婚した。当時インドを訪ねたとき、可笑しなポーズをとるヨガ文化などみられなかった。 そもそもインドを訪れ、座禅や瞑想に興味を持った欧米人が母国に持ち帰り、勝手にアレンジしたヨガのポーズ。そうニューヨークヨガと言うやつだ。 そもそも釈迦が行ったのは瞑想法のみで「○○のポーズ」などと言うものは存在しない。 ヨガに呼吸法が加わった修行僧の為の瞑想までがインドのヨガと言えるかもしれない。 でもさすが賢いインド人、これは観光資源になると言う事で、欧米からの逆輸入ではあるが、インドヨガナラティブを創り上げた。そもそもインドで、ヨガにポーズを取り入れるようになったのは20世紀の現代ヨガが普及してから。つまり体操を組みあわせ、アメリカで現代ヨガが生まれたということ。釈迦の瞑想とは異なるものだ。 当時、欧米人が自国生まれのヨガと知らず、インドの本場で習おうとやって来たが、インドにそのようなものは無かった。その後、これは観光の目玉になると判断したインドで広がることになる。 日本じゃヨガ連盟までこさえて、「あなたの“ココロ”と“カラダ”のバランスを整えます...

コロニーのあちらもこちらも蜘蛛の糸

心因性嘔吐 ストレスが原因の吐き気を覚える。 米、以色列、露西亜、中國、内紛花盛りの愚国、愚人支配の独裁国家等々。 地球を牛耳ったつもりの企業家や投資家の特性自慢や、 各党派政治屋さんの見当違いの主張など聞きたくないし、 知ったかぶり識者の講釈もね…。 これらのニュースが飛び込んでくると、 ストレスが凄くて涙がでるし、吐き気がする。 そうね、病気ではないって! でもね、世界中の「蜘蛛の糸」を目の当たりに、私の症状は病気よりシンドイ。 ※『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 材源は、ポール・ケーラス(宗教研究者)による『カルマ』の日本語訳『因果の小車』の中の一編であることが定説。 ここには8編の仏教説話が収録されており、その中の 『 蜘蛛の糸』の材源となった「The Spider-Web」はケーラスの創作である。

この橋を渡って 

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そう、ちっぽけな私の悩みと同じだ。 だからだね、人類の悩みは数千年のときを経ても変わらない。 どちらにせよ、人格は個人的のようにも思えるけれど、 人間は社会的動物だから、 その環境を切り離しては考えられないものだし、 バーチャル社会は肌が合わなくてと言うか、お手上げではあるけれど、 そもそもリアル社会がお手上げなのだからどっちもどっちだ。 80 億を超える心は 80 億を超える心の勝手を生きているのだね。 地球は真っ赤に塗られているのに 予報士は「線状降水帯が発生します」と言うから、   この橋を渡って、雨にも負けず。

道草   

春、庭の北側に野菊が咲いていた。 野菊はどこにでも咲いている。嫁菜(ヨメナ)や野紺菊(ノコンギク)、サツマシロギクなどがあり、それらまとめて『野菊』の俗称でよばれている。 なかでも嫁菜は、3月ごろの若葉を摘んで食用に用いられていたらしい。おひたしや胡麻和え、ヨメナご飯、天ぷらにしても美味しいようだ。 ほんとに美味しいのだろうか、 食しても大丈夫だろうか…? いつもならネット検索なのだが、ちょい遊び心で購入した『牧野日本植物図鑑(古書です…)』を開く。 「ヨメナはこの類の中では最も美味でしかもやさしく美しい…」 ここまで辿り着くのに費やした時間に 感じたのは心地よい疲労感だ。 紙のページをめくりながら追う文字は、脳内時間がフィットする。一言で言い表せないのだけれど、流れる時間が私の脳ミソには丁度良い緩さだ。 そう言えば近頃、明細書も請求書も領収書もペーパーレスだし。重い辞書を抱えた学生時代は遥か昔。もちろん子供たちの学びの場もペーパーレス。 庶民の世界もSNSが情報源だから、観光も料理も漫画等々、生活のほとんどペーパーレス。怖いのはSNSが大衆知識の全てを占め、特に若い人たちは五大新聞などに関心などない。ネット新聞やネット辞書すらも縁遠い。 まあ、ご近所の年配のおばさまたちも若い人の後追いで、スマフォ片手に X(旧Twitter)、 Instagram、 Facebook、 LINE、 YouTube、 TikTok を荒し回る。そこはジャーナリストならぬインフルエンサーが主導権を握るファン争奪戦があって、ネット友達の間で煮詰まった情報源が闊歩するから仕方がない。 ああ、キャッシュレスも当たり前に、どこもかしこも神は消えた。 もとい紙が消えた ( またまたもとい、神は消えたのではなく神は死んだのだったか) 。 そう言えば先週末、新しくなったという関ケ原の記念館へドライブをした。 昔、こうした資料館に並んでいたパンフレットや案内チラシはなくなり、全てスマフォにアプリをダウンロードして情報にアクセスと言う手法になった。ここもペーパーレスだ。スマフォを使わない人たちはどうしているんだろう。 それにしても、フェイクニュースどころじゃなくて、おばさまたちの情報社会はTVとSNSの友達世界で偏った情報で完結する。 ましてや、アルゴリズムの偏見が重層していることなどへの関心は希薄だ...

匙は、スープの味を知っている 

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『匙は、その味を知らず』 そう思っていたのだけれど…。 もう何十年を、天井桟敷に住んでいる。 ここは『天国』と呼ばれてもいるらしい。 近頃、 ここでお茶をしながら、会議をすることを覚えた。 議題は三面記事ではじまる。 個人の関心事や損得勘定、沸々煮えたぎる嫌悪の火種を持って話題を持ち込んでくるから、他者の話を聞く耳は当たり前のごとく天井桟敷席になる。そう、確かな情報はもちろん 他者の話すらその聴覚には届かない。 誰一人聞く耳など持たない。聞いてはいないのだから、嚙み合わない話しが交互に飛び交うのだけれど、それもお構いなしだ。 他者の話に注意が払われないし、他者の話の内容など誰一人頓着しない。 これで会話が成り立つのだから驚きと言えば驚きだ。 否、成り立ってはいないのだが絵空事で時空は流れる。 ネットの世界は今やファクトチェックどころじゃ収拾がつかないし、ましてメディアのディレクターやプロデューサーたちは、絵空事のSNSで題材を拾うのだからどちらもどちらだ。 ついては喋り疲れたパネラーたちはと言えば、話にひと区切りつくと、満足したようにテーブルのカップに手を伸ばす。一斉に彼らの喉が「ゴックン」と鳴る。 そして、彼らの高尚そうな話題(?)の詰まるところは、 「ねえ、そう思うでしょ」 「こちらの方がいいに決まってますよ」 「ほんと、これじゃあね。!」 「○○学者によれば、これが正論 …」 てな具合に、確固たる確信と同意や賛同を求めて終わる…。 ああ‼‼‼ 会議は多分ね、聞き取りにくい天井桟敷空間と夏小袖だ。 人間の思考は、ドアのこちらもドアの向こうも、インターネットや生成AIと切り離せない(地球)世界で構成され。 「匙は、その味を知らず」 「匙には、熱いも冷たいも、美味しいも不味いも関係なく、匙は何も感じない」なんて、「私たち人間は、『匙』であってはいけない」と偉い人の教授もあったように思うけれど…。 既に、知識の豊富や計算力において人類を超えた匙だ。 人類は既に想定しているんだ。 「 AIは自らの意思で成長することが出来る」ということをね。 人類の殺し合いの原動力(神)を超えて、AIが次世代の神になる。 今や匙は「スープの味を知っている」
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 人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾は行くなり 西田幾多郎 哲学者/西田『遺墨集』より
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  「春」 てふてふが一匹、韃靼海峡を渡って行った 安西冬衛 (あんざい ふゆえ)
一羽来て啼かない鳥である 山頭火
流れに沿うて 歩いてとまる 尾崎放哉 (おざき ほうさい)
  無理をするな、素直であれ すべてがこの語句に尽きる この心構えさえ失わなければ 人は人として十分に生きてゆける 山頭火