やまとごころ




いろいろ思うことはあっても…
思うだけじゃどうにもならないけれど^^

武漢からウイルスがやって来たときは
例年のインフルくらいにしか思っていなかった。
そんな軽い情報提供だった


ましてパンデミックを起こすなんて想定外。
ウィールスの正体を検証できなかったのは大きい問題だ。
某国とWHOの、初期のミスリード、
彼らも思惑と保身がもたらした事の大きさに気づいているだろうな。
それでも謝罪しないのはお国柄だろう。
特に某国の隠ぺい体質は今始まった事じゃないけれど、
特に今の指導者がそうなのかな~~~
各国に多大な損害をもたらしたことに正面から向き合う必要もありかな(?
そしてそこから波及した諸々のデモや暴動、
EUも黒人も白人も、すこしクールダウンが必要だしね。
「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに!」
確かにそうかもしれないとは思う。
でもそこには、日本語言語に培われた日本の精神文化っていうものもある。

人は使用言語によって構築される社会の中で、精神的価値観を形成していくものだ。
シャルルマーニュの「第2の言語を持つのは 第2の魂を持つことである」だね。
その長い(言語の起源の合意は見ていないけれど)歴史の中で
日本人の多くが「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに」
という体質が形成されたのだと思う。



 


日本には「嫌よ嫌よもスキのうち」って言葉がある。
口先では嫌いだといっても実は好きだったりする、と解釈するのだけれど、
「嫌い」の語彙に「好き」が同居するわけだ。
この解釈は特別なことじゃなく、日常にあって、
心に全く反対の本音が潜んでいることもあるってことを了解するから、
「嫌い」というの言葉に執行猶予を与えるという、
ちょっぴり面倒な恋のやり取りがあったりする。
そんな日本人のはっきりしない揺れる恋心の機微は
お暇なときにでも『源氏物語』を読んでみてね^^

そしてもう一つあげてみると、
フランスで起こったイスラムのテロに対して
「私たちは表現の自由を守る」というときの「自由」
もちろんテロの非道は許されるものじゃない。
しかし大統領が一つ覚えのように言う「表現の自由」とは、
いったい誰の為のものなんだろうとふっと思った。
よく考えると…、じゃなく、よく考えなくたってだ、
全ての人に『権利と自由』が
同時に同時空間で存在するという現状は成り立つはずがない。
自由平等を四角四面に追求すれば、確かに人間は生まれつき平等だ。
だけどホッブスの言う、
「自然状態において、万人は万人に対して戦いの状態に成る」
というところかな、ここんとこ納得できるんだな^^
日本語の語彙にも『自由』という単語がある。
そこにはリバティーやフリーダムのもつ意味に近いものと、
「わがまま」という自己中心的な「身勝手な自由」の意味も含む。
そんな日本の言語に構築された日本社会では、
家族や社会の中で言葉を交わし暮らす日々に、
自分の自由の主張するときには、相手の自由への配慮も必要だと、
無意識の意識が育っている。
まして、芸術など表現の世界は特別のように思われているけれど、
芸術や自由な表現だけが特別な世界などではない、
全て人間があってこその世界なんだから。
この人間があってこその世界観というのは、とても大切だ。
私たちが意識しなければ宇宙すら存在しないってことだしね。
もち、人間が宇宙の最高位に位置するという意味じゃない^^
アインシュタインとタゴールの対談で語られた「お月様」の話だ…。
 
話は少し飛躍したけれど、
「自由」に「自我のもつわがまま」という意味を加え思考する。
自らの意志で自らの自然権を律して相手の自然権も考えてみる。
まあ、いろいろ意見はあると思うけれど^^
こんな「やまとごころ」が、日本精神の底流にまだ残っている。
 
グローバルなものの嗜好も増えてきたし、
いつかミックスされて消えてゆくか、生まれ変わるかわからないけれど。
カントが言っている。
  自由とは、好きなように思い通りに行動することではない。 
  自由とは、誰かに命令されることなく
  自らの意志で自らを律して生きることだ
                     ーイマヌエル・カントー
自らを律する
ここんとこは「自由」を理解する好きな言い分だ^^ 




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