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結構な風  

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先週だ、6人の女がやって来た。 田舎じゃ忙しい盆暮れに、 一家の主婦が 気ままに飲み会…と、言う訳にはいかない。 だから我が家でランチを兼ねたお茶会みたいなものが始まった。 持ち寄った手料理やお菓子がテーブルに並ぶと 「美味しそう!」 「美味しそうじゃなくて、美味しいのよ」に始まって それぞれが腕自慢の解説に世話しなくなる。 空いた器を片付ける人が 私の前を右往左往と行き来する。 ひとしきり落ち着くと 「ブラジルでいい」だなんて言いながら 棚に鎮座する一番右のキャニスターを指さした。 この飾り瓶にブラジルが入ってるだなんて、何で知ってるの…? 勝手知ったる他人の…ではないのだが、 なんだかな~。 いつの間にかお湯が沸いて 、あっ~!食後の珈琲までもが… 「それはちょっと待て、珈琲は私が淹れるんだから!」 私は思わず声を上げた。 「この茶会、女主人は私だ。 なのに、何一つ私に出番がないなんて」 しかし、私の声は届かない。 気がつけば既に、カップは琥珀色を満たしていて、 ただ女たちはうるさく賑わしい。 何てこと…! とは言え、この賑わい、今までと違う美味しい風が吹いている。 食べるために忙しい時代があった。 あれは、よくある業界のゴタゴタに疲れ、 本業と副業が逆転したころだ。 人に会わずに暮らしたいと思った。 そんな私をふるさとは、何も聞かず迎えてくれた。 しかし、実家に父や母の姿が消え、わたしは客になる。 竹馬の友も、互いの暮らしの中で価値観がズレ、 馴れ馴れしく前の道路も渡れやしない。 そんな、どうすることもできない行き違いが起こるものらしい 。 そうしてふるさとは、時を境に知らない風が吹く。 あれもこれも嘘のように、時間も流されてしまった。   ふるさとは遠きにありて思ふもの   そして悲しくうたふもの   よしや   うらぶれて異土の乞食となるとても   帰るところにあるまじや・・・               /犀星 あの時を境に吹き始めた風は 「もう何もないよ…」と言っても勢いを落とすこともなかった。 まして 流された時間は戻ることもない。 けれど、 うるさく賑わしい6人の女が持ち込んだもの。 ふるさとにはこんな風もあるのだってこと。 そう、このごろ、少し心が緩んで、やっと気付いたということ。 そりゃね、毎日はしんどいけれど、こうした田舎の付き合いって なん

ヒジャブは着用したくない 

ヒジャブは着用したくないけれど… 私がパレスチナ人として生を享けていたら 市民不服従運動に加わっていただろうな… 『ハイファに戻って/太陽の男たち   』 ガッサーン カナファーニー 著/ 河出文庫(2017年6月) 訳者(黒田壽郎)がイスラム教徒だからと言うわけでもないが、私の知識不足が否めないからやや理解が難しい。PCを前にして検索サイトに首ったけで本を読む夜が明けた。 「ハイファに戻って」 は、イギリス軍により突如強制的に逐われたパレスチナの夫婦が、イスラエルの兵士となっていた愛しい我が子との再会の物語だ。 19世紀のシオニストは、そこへの「帰還」を切望していたパレスチナを「土地なき民のための民なき土地」と表した。 ゴールド・メイア(イスラエルの政治家、第5代首相)は、「パレスチナ人とはいったい誰の事か?」「そんなものは存在しないのだ」と嘯いた。そう、ネタニヤフが口にした「そもそもパレスチナ人などいない」と同じだ。 これこそ民族浄化を推進したナチス、君たちユダヤ人を迫害した時のナチスの言い分と同じなのだ。 1948年、連続で起きたシオニストたちによるパレスチナ人虐殺。 デイルヤーシン、アイン・エル ザイトゥーン、サラ・エル・デインの虐殺事件を検索しながら吐き気を覚えた。 デイルヤーシン村の虐殺事件は 「悲しいオレンジの実る土地」 として収録されている。そして、これらパレスチナ人虐殺事件の一か月後、イスラエルは国家樹立を宣言したのだ。 イギリスの二枚舌外交、シオニストから見返りに権益を保護するという約束を取り付けさっさと撤退。中東問題の火種にイギリスの責任は問われていないままでいいのだろうか。西側自由主義社会への幻想が浮き彫りにされる。 ましてドイツの体たらくは酷いもので、ナチズムの亡霊にがんじがらめで、正しい判断さえ出来やしない。ヒトラーの悪行の歴史は忘れていいものではないけれど、だからと言って、今リアルに起きているシオニストの悪行に対し、何も言えない現実をどのように考えているのだろう。そこに聡明な判断があるとは到底思えない。 また、イスラエルに自衛権があるなら、虐殺され土地(国)を追い出されたパレスチナの人々にも自衛権があることを知るべきだ。 著者であるガッサーン カナファーニーは、1972年7月、自動車に仕掛けられた爆弾で36の短い生涯を終えた。

ブッダとタゴール 

「人々は残酷だが 人は優しい」 / R abindranath・タゴール そうだね、「人々は残酷だが 人は優しい」 昔はね「うんうん」ってね、納得したものだ。 だけどこの頃、残酷さを示すのは人々ではなく、 ブッダの言う通り、そもそも 人は残酷で身勝手なのだと分かってきた。 つまり、人は優しいのじゃなくて 弱いだけのこと。 弱いがゆえに持つ渇愛と言う事実を直視し出来なくて、 それを「その弱さこそが人間ぽいんだよね」だなんて 砂糖をまぶした曖昧な言葉でカモフラージュする。 俗に言う仏教を創始したなどと露ほども思っていないブッダは、 欲望を中核とした人間観を持っていた。 つまり、人間の人格の中心にはやむにやまれぬ生存への執着があり、 それを中核として欲望が 網の目のようにのび、世界を形造っている。 この欲望によって世界像は歪んでいると言っているんだね。 つまり、人間存在の根本は渇愛があり、 そ れがつる草のように蔓延って人格を形成している。 彼はこの欲望から自己を自由に開放しなくちゃいけないなんてね。 「無執着」「無一物」という言葉が飛び交った。 つまるところ、 タゴールの 「人々は残酷だが 人は優しい」のではなく、 そもそも人は、自己浄化しなければならない妄執の汚れにまみれてるってことらしい。 簡単に言えば、哀しいほど美味しいものを食べたくて、 おしゃれな服を着たくて、 訳の分からない鉱物で身を飾って、 瀟洒な家に住みたくて、 あちこちを優雅に遊び廻りたくて、 他者を配下に置いたり自分の所有ぶつとしたくて、 世間に一目置かれ社会的権威や権力を持ちたくて… 時に「ささやかでいい」だなんて言ってみたりしながら、 あちこちに欲望の目を萌芽させて、 執着から逃れられず生きているってことかな。 だからだね、そこの執着から逃れられないから、 人間が持っている残酷さを同伴させる。 と言うより気付きもしないで あらゆる真実から逃げる。 時に某国みたいに神の意思だなんて理屈をつけたり、 身勝手な正義の御旗をたてたりしてね。 全て、それらの本質は君の中、人間そのものにあるのに… 「人間 とは何か?」とか、「人間の本質とは何か」などと 問いかけ、 哲学的な思考と実証的な調査で答えを出そうとすることなんて、 そもそも無理なのかも。 タゴール君、人と人々の残酷さの違いは、 みんな(人々・仲間)で