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渇愛            

執着などじゃないんだから、 てね、そう思うのだけれど。 スクールカウセラーをしている妹からLINEが入った。 「この頃思うの、もう辞めてやるんだからって…」 物事に心躍らせることもなくなった。 そう、とおの昔にだ。 「当り前だけど、世の中なんて正義感だけじゃ生きてはゆけないし…」 「待ってよ。生きてゆけない何てどころの騒ぎじゃないんだから」 そう言えば能登震災のニュース番組だった、 ご高齢のスクールカウンセラーが、 被災した子供たちにアドバイスする情景が映し出されていた。 片方の耳がうすっぺらいスピーカーから流れてくる声を拾う。 待ってよ、そんな箇条書きのアドバイスでいいの…、 なんて思いながらね。 でもね、 マイクが向けられ感想を語る 少女(小学生の高学年?)は、 「いろいろ為になりました。今後に活かしてゆきたいと思います…」 凛とした表情で応える。 『我が小学校の生徒として恥ずかしくない三重まるの回答だ‼‼』 なんて思いながら、 少女の頭を撫でている校長の姿が目に浮かぶ。 確かに、ほころびの無い賢そうなコメントだ。 この少女のコメントに、なんと健気な子供だろうと涙ぐむのだろうか? でも、こんな言葉を言わせるのは、いったい誰なんだ? ぬくもりの手を拒否した廃屋の北側、 壊れかけた庇の格子窓の下に小さな焚口が見えた。 そこに繰り返されただろう日常は一瞬に消え去り そうしてスローモーションに崩れていったに違いない。 昨日までの時がどのようであったのか 私に思い入れはない。 こころに積み上がるものなどありゃしない… 幼子に手を差し伸べるように 枝を伸ばしていた松の木が姿を消した事も。 松をゆする音とともに抜けていった風と、 松の葉を焚口にくべる背中がそこにあって、 パチパチ纏わりつきながら、その背に赤い火の子が遊ぶ光景もだ。 だいいちさ、 そこに手を伸ばしても、もう、誰にも届きゃしない。

共感疲労          

『ぼくたちは見た』 / ジャーナリスト・映画監督:古居みずえ ●ガザ紛争(2008年12月から2009年1月) イスラエル国防軍とパレスチナのガザ地区を統治するハマス、 両者の間で勃発したガザ紛争、紛争 後のガザを子供の声が綴る。 ガザへの侵攻、 ガザの人々に監獄の様な暮らしを強いたイスラエル。 もちろん、現在進行中の紛争においての、 「自国防衛の権利」を主張する単純な言い分も、納得できない。 まして、ヨルダン川西岸地区での虐殺を伴う入植政策が 正当化される筈など無いのだし…、 映画を観て間もなく、なんだか引っ掛かる違和感。 きっとガザの子供の言葉が日本語に訳されるとき、 幾つかの個所に大人の言葉遣いが散見されたからだと思う。 それが私にとって妙に鼻についた。 そうよね、よくあることだけれど、ある意図をもって…、 あるいは、これもよくあることだろうが無意識のうちに…、 映像や子供の声がふるいにかけられ、 足し算引き算が加わる。 それが、記者たちが記事を書くときのスタンスにある。 私が感じた違和感は、何となくなのだが、 表題は「ぼくたちは…」となっているのだけれど、 本来は「ぼくは…」で表現する方がしっくりくると思った。 一人ひとりの声というリアルさがどこかに飛んで、 取材者側、製作者側(訳者?)の記者のスタンスが頭をもだげた。 それが「ぼくたちは…」の「たち」に反映された。 多分、記者は弱々しい取材であっては人を動かせないと思う。 こうした記事の注目度の神髄は、いかに衝撃性を必要とするか…。 そんな製作者のバイアスが無意識に働いたに違いない。 つまり表題の「 たち」という複数形の中に、 製作者たちの思惑が存在しているのだ。 字幕の訳が私を現実に引き戻すから、 私だって私を傍観しながらゲームの中の戦争を観ている距離感になる。 これが、「ぼくは…」と「ぼくたちは…」の距離間だ。 「ぼくは…」という表題が適切だと思う私の違和感だ。 帰宅後の数日間、 「ぼくは…」という私は、疲労感の中で過ごした 。