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4月, 2023の投稿を表示しています

要注意人物リストにupされます 

とても不安定な世界だ。 日本人も二種類の人種に分断だ。 分断の項目は経済は言わずもがなだけど、 問題は認知力と思考力。 支配する人とされる人だ。 やや古い記事だけど、 TechCrunch Japan 『連続殺人犯逮捕へと導いたDNA分析サイトは、 ユーザープライバシーに関する懸念を再燃させる』 DNAのデータ情報でゴールデンステートキラー (カリフォルニア州連続殺人事件の犯人) の未解決事件が解決されたことで プライバシーの問題がクローズアップされた。 DNAによる『オンライン家系図データベース』の 無料利用が世界で一般的になり、 データベースが犯人探しに勝手に利用されたということかな? 日本でも女性雑誌などに広告が掲載されていたらしい。 DNAを調べて、ルーツを知ろう…だって(驚! 家で飼うペットの血統を調べるのとは ちょい話が違うから、DNAを調べるのはいいけれど 安易に情報提供は気がかりかなと思う。 そう、DNAは将来の病気を予想するだけではなくて、 犯罪を犯すDNAが特定されれば 「DNAによる未来の犯罪者を管理する時代」を 暗示するということになるのかもしれない。 冗談と笑っちゃいられない。 現実にDNAの研究は進んでいるのだ。 中国での『ゲノム編集』が問題になったけれど、 賛否だけでは片付けられない。 表と裏があるお国柄だということもあるけれど、 内密で実験は続けられている。 倫理や引き継がれる命への影響に問題があっても 近年、長寿や老化の分野は、多大な投資がされており、 不老不死(人類の夢?)も、あながち迷い道ではなさそうだ。 いつか、人間に神様やこうのとりなどの必要がなくなり、 人間自身が、創造主になる日がやってくる。 ゲノム医療にはじまり、『デザイナー・ベイビー』もリアル、 親のいない人工体『ミニマル・セル』も創り出されているし…。 そうだね、人造人間だって遠い話じゃない。 何てったって、研究者たちの虚栄心を魅了するテーマだ。 それにしても私のDNA…(? そう、どんな人たちと繋がっているのだろう? 『オンライン家系図データベース』も心配だ 。 「人類はアフリカの一人の女性から始まった」 というイヴ仮説も、 「私たちも全ての物質も、みんな星の子供です」 という宇宙スケールのロマンも、 全ての命は繋がっている事を示唆してると思えば… ある

青ネギ            

彼女は、畑の種を売る倉庫のような店舗からではなく、 それは目ぱちくりでお人形のような服を着て、 髪で両サイドの顔を隠した小顔の少女? そう子供のような女性が屯する店で わたし『青ネギの種』を見つけたのです。 季節は、まだ早い春がシャビシャビみぞれの三月でした。 わたしは簡単な栽培方法で事足る『青ネギ』です。 茶色のクラフト紙の中で60日もあれば種蒔き不要で、 丈も15cmほどになります。 収穫時期も早いのですが、根本を3〜4cm残して収穫すれば、 また新しい芽が生えてきて再び育てることができます。 独り暮らしで薬味程度でしたら十分の量で、 育てる楽しみも手伝ってか、 当時若い女性にとても人気でした。 ところが、若い女性の人気がピークに達した頃です。 我も我もと中年のおばさんが割り込んできました。 若い人の文化を後追いし、 市場を荒らすのはいつものことですが、 そうなる頃には若い女性の関心ごとは他に移り、 お店の中は中年のおばさんに占領されていきます。 何て申しましょうか中年のおばさんは…、 アッ《おばさん》は差別用語でしょうか。 もといします。おばさんではありません。 そう中年の女性たちはそれを知ってか知らずか、 若い人たちに遅れまじと、流行りに飛びつきます。 「これが流行の先端なんだから」と、 幾つも幾つも購入してゆきます。 彼女たちは自慢げにあちこちに配るようです。 そんなこんなで、 中年の女性の購買力は若い人をかなり上回りますから、 お店のオーナーの顔もほころびます。 そして私たち青ネギも、 中年の女性たちのお陰で店頭から姿を消すまでの時間に 執行猶予をいただくことになりした。 しかし、中年のおばさん達の手は 日付の新しい青ネギに伸びるものですから、 わたしは徐々に後ろに追いやられてしまいました。 それにです、騒ぐだけ騒いだ黄色い声の女心は秋の空です。 オーナーは調子づいて仕入れ過ぎたのです。 売れ残った青ネギたちと一緒に、私も末路は ゴミ 箱でした。 それでも彼女たちに食べられるよりは良かった気もするのです。 でもね…、ちゃんと育ち食卓に上った青ネギは 決して多くはない気がしています。

レプラコーン         

それは田舎町の一角。 頭上に田中靴店の看板がぶら下がる 間口一軒半のガラス戸の向こう。 板の間の真ん中で四角い座布団に座っているのは まん丸ロイドメガネのおじいさんだ。 小柄で、職人気質で、すこしばかし偏屈。 けれど、気が合うと陽気な一面をのぞかせてくれる。 「待っていれば、すぐ直してやるよ」といってくれるから いつもおじいさんの脇に座って過ごした。 コンコンとハンマーの音を響かせて修理が終わる。 「今どきの靴の修理はなってないよ。 あれじゃますます靴が悪くなるのさ、大切に履きなよ」 と、メガネ越しに笑う。 あれから過ぎた時間にわたしも大人になり、 東京に戻ることになったある夏の夕方だった。 さよならを言おうと、訪れた店の中で 丸いちいさな背中が振り向きもせず呟いた。 「店仕舞いだ、もう直してやれないからね」 こころが何かでいっぱいになるのを覚えても 突然のことに返す言葉も見つからない。 「元気でいてください」の一言だけで店を後にした。 この手からするっと逃げていった遠い記憶だ。 何も言わなくても分かり合える… なんてことはありえないかもしない。 けれど、数十年が過ぎた今も、忘れることが無い。

そもそも           

同じ月を見ていないのだね 現実社会の経験は記憶の回路に蓄積される。 時々に引き出され、リアル世界の刺激を受け、 重ねて記憶されるたび、 複雑に書き換えられてゆく。 成長なのか後退なのか分からないが、 少なくとも、 それらは事実からも遠のいていく。 まして私の狭い世界で、経験し記憶した現実は 自己に依存した主観の世界に過ぎないのだし。 だからと言うわけじゃないけれど、この頃思う。 科学の世界は数学的に導かれた原理で、 本質的に世界は不確かだ (不確実性) ってね、 そう考えれば、他者の心を推し量るなんて問題外だと言う事だ。 人間の世界は真っ暗だ。 良くも悪くも個々の記憶は拠り所とするそれぞれの記憶が 滅多にない致命傷を抱えてゆくわけだから、 そう、ちっぽけな教養や知識の中で度重なる書き換えを経て、 結局、絶対的な知識や判断など縁のない世界が構築され、 そんな中でいがみ合いの自己満足で生きているのだね。 そう言えば タゴール は「月はそこに存在しない」と言った。 アインシュタインは 「現実に物質としての月はあそこに空にほらある」と答える。 そうじゃなく、月は人の認識によって存在するのだと、 タゴールは言っているのだ。 つまり、もし人がその月を見ない、 もしくはそこに月があると認識しなければ、 その人にとって月は存在していないということらしい。 そう、観測しているものや観測できるものは 表面上の事実や事象は真実であるとは限らない。 この一人ひとりの危うい自己に依存した 主観的世界に過ぎないということなんだ。 こんなことも、この頃理解出来てきた。 理解できないあの人が馬鹿なのではなく、 あの人と私は全く別の出来事を経験し、 全く別の事象をみているってこと。 世の中、理解不能などうでもいい事ばかりだけれど、 こんな世界でこんなことに悩み案じるのも何だか空しい。 ちゃんと話が出来た君を亡くしたこと、とても痛い。 でもね、主義主張は異なるけれど、 やっとだ、数人の話が出来る人に巡り合えている気がする。 それにしても、近所もそうだけど、 筋トレなどで日常に付き合う賑やかな大人達の、 特に女性の多くの田舎のプライドは天井知らずで、 社会的なことなど正直どうでもよい事で、 (女だけじゃなく多くの男性もね) この田舎の思考回路や思考秩序はどこからきているのだろう? 学びを放棄してるのに、

ラベンダー 

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ラベンダーを育てている。 六年目のラベンダーが木質化してしまった。 ちゃんと剪定しなくちゃと思いながら、 色々あって忘れていたら花も咲かなくなってしまった。 三年目のラベンダーは今年美しい花を咲かせてくれるかな。 一年目のラベンダーはまだまだ子供。 今年は花の収穫を終えたら クローゼットとチェスト用にポプリを作る。 ラベンダーの香りが嫌いな虫は、蚊・ゴキブリ・蛾などかな? 衣装ケースの虫には関係なさそうかもだけど、 香りに癒されるし、あ迷惑な夏の蚊にはもってこい。 今年知合った友にプレゼントだ。 いっぱい作らなければ~~~! 二度と木質化させないために ■ ラベンダーの育て方の覚え書き^^ ラバンジン系ラベンダーは成長がゆっくりです。 順調に育てば3年目の初夏には 多くの花穂を付け見応えのある樹形に成長します。 1年目  好きなように自由に育てます。 2年目   ①回目は枝すかしの剪定  *ラバンジン系ラベンダーは  剪定せずに株を大きく育てて下さい。  初夏に花穂を少し付けてくれます。  2年目以降は剪定を年に2回 行います。  開花後の花穂の刈り取り及び風通しを良くする。   ②回目は枝先を整えるだけの軽い剪定  暖地なら 12月初旬に行う 。 3年目以降  暖地では 冬に強剪定 を行います。  剪定することにより、株の老化を防ぎ活性化させます。      *この強剪定をちゃんとしないと木質化しちゃうのね。  活性化した株は毎年初夏に多くの花穂を付けてくれます。

真っ赤なバラ           

  勿体なくも大切な時間を使ってしまった。 でもね経験と知識をプラスして、裏切りにも強くなったし、 紛いもの(者)への対処にも賢くもなった。 ほんとうに色々学んだ。 「事実は小説より奇なり」 フムフム、なんだか異常で奇妙な人間社会の中でね。 バイロンの名言が大当たりだ。 話には羽が生えていて…(? 近頃疲れっぱなしのわたしだけど、 とてもぬくいお裾分けに心がほころんだ。 つい最近のこと、花屋の前を通過すると、 真っ赤なバラの花束を抱えた男の人が出て来た。 数十本は抱えていた…。 恋人へバラの花束をプレゼント(プロポーズ?)だね。 こんな田舎町には似合わないくらいのカッコよさだけど、 お相手の女性に幸せが届くのだ。なんて素敵なことだろう。 もちろんね、君の愛、もしかしたら寄り道もするだろうな…、 けれどね、ちょっと見たドキュメンタリーに思う。 これが大人の愛だってね。 「 ゴルバチョフ 老政治家の“遺言” 」BSドキュメンタリー ミハイル・ゴルバチョフ氏の最晩年を取材したドキュメンタリー。 モスクワ郊外で静かに暮らした旧ソ連最後の最高指導者が、 ソ連崩壊後の人生とプーチンのロシアを語っていた。 *世界最大のドキュメンタリー映画祭IDFAで最優秀監督賞。 *原題:Gorbacherv.Heaven(ラトビア/チェコ 2020年) ドキュメンタリーの最後に、90歳を過ぎた彼が、 共に生きた妻を恋しく語る心は切なかった。 時が過ぎ、バラの花を抱え花屋から出て来た君が、 長年連れ添った妻に再びバラの花をプレゼントできたら…。 それは、とても素敵なことに違いない。

文化的な死 

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高齢社会の次に訪れると話題の多死社会。 2039年日本は、死者数が167万人に達するらしい。 そんな中、日本の死の定義も、 先進国並みに大きく変わってきている気がする。 日本の死の定義を調べると、 「生物的な死」「法的な死」「文化的な 死」の 3つの視点があるようだ。 生物的というのは、生活機能が停止した状態を指す。 つまり人間の死は、従来、 「心臓が 停止・呼吸が停止・瞳孔が開く」 といった3っの兆候で判定される。 では法的に死んだとされる瞬間は…、となると、 必ずしも、生物的な死と同じではないと言う事になる。 しかも日本では、 1997 年の臓器移植法成立を機に、 法的な死にダブルスタンダードが生じているらしい。 脳死での臓器提供を前提とする場合には 「脳死が死」。 提供しない場合には「心臓停止 が死」となる。 つまり、 法的に死んだと判定される肉体的状況は 人によって異なるし、 臓器提供を前提とせず、心臓停止が死であっても、 法的な死と生物的な死が一致し ないこともある。 たとえば、癌などで闘病の甲斐なく心肺停止となっても、 遺族や本 人が蘇生措置を望めば、 まだ死んでいないのだ。 もちろん蘇生を試みない場合に はこの時点で死んだと判定される。 医療技術の発達で「法的な死の瞬間」を 選択で きる時代になったということだろうか…? そして文化的な死は、それぞれの国の文化に根差している。 個人的なことだけれど母が死んだ時、 姉の家族は海外で暮らしていた。 母の訃報を聞く姉は 子供みたいに泣きじゃくる。 さりとて今の今、チケットが取れる確率は低い。 ましてや海の向こうである。 「母に一目会いたい」と懇願する姉の想いは、 荼毘に臥す前まで母は生きているとの死生観を持っていた。 喪主は荼毘に臥すのを一日延期して、姉の願いを叶えた。 そう言えば日本では火葬するまで、 遺体を生きてい るかのように扱う風習がある。 少なくとも火葬して遺骨になるまで…。 否、もっとかな、母の遺骨をペンダントにした妹は、 「いつも一緒にいる気がするの」と目を赤くした。 なるほど、 彼女たちにすれば 母は死んじゃいないのだ…。 死んでも、静かに休んでいられそうにないね。母さん。