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仇討ち             

飛騨に生まれた人から郷土の仇討ちの話を聞いた。 要約すると、と言っても短い内容だから、要約なんて変ですが、     「国若の墓」 徳川の時代のこと、国若という武士が女連れで、飛騨街道方面からやって来た。二人は洞山に仮住居し密かに暮らしていた。そこへ国若を仇とつけねらう武士が現れ、元来武芸達者だった国若だったが病床の身で、妻は果敢に戦ったものの所詮女の非力。共に討たれてしまった。村人たちは悲運な国若の墓を立て手厚く葬った。墓には「文化十五寅天(1818)南無阿弥陀仏、国若」と刻まれており、女の墓はやや離れたところに粗末な石が積み上げられている。 とのこと^^ 何故、女の墓が粗末なのか、 男の墓は飛騨の久野川地区に仇打ちで切られた近くに建てられていて、 墓石には『国若』と名前が刻まれているらしい。 詳細は分からないが、 ただ妻を奪われた武士が仇を討ったのではないかということだ。 妻を奪った武士は病床に伏していたからか、 村人の涙を誘ったのだろうか、手厚く葬られたようだ。 ただ、同地の旧家に残されていた国若所持の槍の故か、 その家に不幸が続いた。以後、槍は白山神杜に奉納されたようだ。 江戸時代の仇討ちや敵討ちは約束事が厳しく、 敵討ちの許可を受けるのも簡単ではなかったようだ。 その実態もドラマで見るようなスッキリとしたものとは程遠い。 女が絡む『武士の一分』(藤沢周平作)を思い出す。 偶然だが彼が残こした本を整理していて 『日本敵討ち異相』 長谷川 申作 を見つけた。 遠い時代の人間模様ではなく、 仇討ちの正当性は法に認められてはいないけれど、 今、繰り広げられている人々の人生模様に通じるものを垣間見た気がした。 久しぶりにローカル電車で飛騨まで出かけたいと思うのだが、 何だか近頃漫画やドラマで飛騨高山は流行りの賑わしさを漂わせていて、 その一歩の足が出ない。

アナログ
も悪くない  

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そうだね CD しか聴かなくなっていたから、 アンプ、チューナー、スピーカー、ターンテーブルもすべて処分した。 レコード盤も捨てた、捨てたつもりだった。   思えばプレミアムがつき、かなりの値段になっているものもあったと思う。 希少価値のあるものをオークションで落としたり、 ミュージシャンが来ると招待券が送られてきて、 ブルーノートに出かけたり、ライナーノーツを書いたり、本を出版したり、 海外からミュージシャンを招いてコンサートを企画したり…   私じゃなく、当時一緒に暮らしていた男(ひと)のことだ。 そんな彼の世界からこぼれてくる音楽を聴くようになって、 やがて二つに分かれた荷物に何枚かのレコードが紛れ込んだ。   長いながい行動制限の中、 中途半端になっていた本の整理を再開、紛れ込んでいたレコード盤が顔を出した。 聴きたいのだけれど、オーディオ環境は ZERO だから諦めるしかない …   そう思いながら階下に降りて TV のスイッチを on 、 偶然、バスルームの窓際でレコードを聴いている場面が映し出された。 これでもいいかも…と、さっそくスーツケース型のポータブルプレイヤーを購入。 針はサファイヤにしたのだけれど…良いのかな、悪いのかな。 音は悪いし音量もままならなくて、ノイズもまじる。 なのだけど…、完ぺきな音より時間がゆっくりと流れる気がする。 気がするだけかな…^^ さすが我が家のお風呂場は狭すぎるから窓際で聴くのは無理だけれど、 ハイキングだったら付き合ってくれそうだ^^

ゆきあいの空とさんま

  一雨ごとに秋めいて、少しけだるい雨上がり。 過ぎ行く季節と来る季節の狭間、ふたつの季節が混在する空を 『ゆきあいの空』と言う。 なんとなく大人の季節だ. 夜空では早々夏の星座が傾く南西の空に、細い月と金星と赤い星、 名残惜しそうに傾いた夏の星座の中に、秋が揺らぐゆきあいの空。 9 日は月の左側に離れて金星が輝き、金星の左側にはさそり座のアンタレス。 翌日の夕方 10 日には、金星は月の右側へと位置を変えアンタレスは月の左下。   金星に比べるとアンタレスはずっと暗いけれど、 西に沈む印象的な赤い星は星座の夏に終わりを告げるようで、 日の入り後の刹那、心惹かれる光景だ。 細いほそい月に、赤いアンタレスと金星が寄り添う。 名残惜しい夏の星座と寂しげでもある秋の星空。   とは言え、食欲の秋でもあって…、 缶詰じゃなくてやっぱり塩焼きにしてカボスや、スダチで食べたい。 目黒のさんまも昔は笑えるほどの食べ放題で安かった…のに。 今じゃ秋のさんまが一尾 800 円也、食欲の秋も遠のくようだ。