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大賢は愚なるが如し      

  『ゴータムの賢人』という逸話がある。 Wise Men of Gothamといえば馬鹿な人をさす。 ヤギ(goat)が馬鹿な動物とみなされていたことから ネーミングされたとも言われるのだけど…。 逸話の内容は 村の近くに国道を建設しようとしたイングランド国王が 村の支援を要求するために使者を送ってきた。 費用を負担したくなかった村人は、 全員で物事が理解できない馬鹿のふりをして難を逃れた。 実際には馬鹿ではなく 馬鹿なふりをしていただけだという話のようだ。 19世紀の作家ワシントン・アーヴィング(米国作家)は、 「マザーグース」にもなった「ゴータムの賢人」から、 風刺新聞『サルマガンディ』1807年11月11日号で ニューヨーク市のことを「ゴッサム」と呼んだ。 ここから、バットマンが住む架空の街が 「ゴッサム・シティ」にもつながるらしい。 マザーグースで歌われるゴッサムの三賢者     ☟ ゴッサム村の三賢者 (マザーグース) M017 Three wise man of Gotham Three wise man of Gotham Went to sea in a bowl; And if the bowl had been stronger My song would have been longer. 「大賢は愚なるが如し」と言うことだろうか? 何だかな… 今日、一日の反省を込めて^^

左手の記憶 

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廃屋の裏木戸を開けると、 細長く伸びた土間の奥、 釜戸が目に飛び込んできた。 時間の痕跡に四角四面の思い入れはないからか、 こころに積み上げるのも無意味な閑さが胸を衝く。 それでも小枝を拾い集め焚口にくべると、 パチパチと赤い火の粉が纏わりつくようで… 払おうと伸ばした左手が空をつかむ。

てがみ            

煙草の包み紙と一緒に、 懐かしい手紙がアルバムに挟まったままだった。 窮屈な場所で二~三十年余りの時間を過ごした手紙だ。 人間には、なかなか気付けないこともある。 なんと哀しいことかと、今思う。 出会ったのは君が十二の頃だったんだね あれから随分の時が過ぎてしまい 僕の髪がぱらぱら白くなり始めた夏だった 消息を風のたよりに聞いて、僕は東京へ君を訪ねた 「少し年を取りすぎたかな」と、口にする僕に 「私も同じ数だけ年を取りました」と君は笑ったね 僕は妻に「小さな恋人に会ってくる」といって出かけたのだけど 僕の気がかりをよそに、自然体で生きる君に驚いた 当たり前のことだけど、君は大人だった 君と会えるのもこれが最後かもしれない ややへこたれ、この手紙を書いている けれど胸の奥から、どうしようもない悲哀と一緒に 熱いものがこみあげてきたんだよ 妻は髪をくしけずる僕を横に 「まだまだ捨てたものじゃないですよ」といってくれた 僕は精一杯、男前でありたいと思った  見舞いにきてくれてありがとう  君に会えて、ほんとうによかった 色々ね、なんて勘違いして生きてきたのかってね。 きっと先生のこころを痛め、手を焼かせた どんなに多くの、小さな恋人がいたことだろう。 やっと戻ってこられたのだけど…。 開け放たれた土間を通り抜け、 手紙のインクを舐めるように風が吹く。 こんな閑かな時間が他にあるだろうか。

マッチ売りの少女       

ニルマル・ヒルダイ(死を待つ人々の家)という施設がある。 (NIRMAL HRIDAY) *ニルマル・ヒルダイの意味は「清らかな心」。     ああ、清らかな心ってなんだったのだろう。  久しく御目文字あずかってないし…。 『死を待つ人々の家』は、 1952年マザーテレサによってカルカッタに設立された施設だ。 施設がカーリー寺院の隣接して建てられていることから カーリーガート(死を待つ人の家)とよばれている。 『死を待つ人の家』は重篤な人々を対象に、 信仰をもとに尊厳死を重んじたホスピスである。 日本で云えば「緩和ケア―病棟」かもしれないが、 そもそも緩和ケア―などに入れる余裕などない貧しい人々の最後を 静かに看取る施設だ。 もちろんここでの死は高齢者だけのものではないし、 まして悟った賢者らが辿り着く、 「生かされている」「生かされてきた」の心情でもないように思う。 ここには、黙して語らず「受け入れていく」無言の命がある。 「生かされている」と悟る賢さなどないわたしにも、 全てを受け入れることが出来る静かな生き方がしたい。 友人宅で原書に忠実に訳したという 絵本『マッチ売りの少女』を手にした。 絵本のイラストはとても味わい深いものがあり、 そこには、今どきの漫画的かわいいキャラクターがいない。 子供の様なバランスを持つ、かわいいお爺さんお婆さんもいない。 そして書き換えられていない物語は、 男女を問わず、全ての年代に扉を開く。 そうだね、わたしが記憶している『マッチ売りの少女』には 死の結末があった。 当時は理解の外の 文脈もあったりしたものだけど、 「これって何?」「どうしてなの!」ってね。 マッチ売りの少女の死に場所が 凍える町の片隅だったことに、 小さなこころは説明のつかない痛みを覚えながら、 当時はマッチ売りの少女がわたしの隣にいるような気がして、 わたしがここで泣いちゃいけない、 少女は泣いてなんかいないのだから…。 そう思った記憶がある。 アメリカに最初に渡った『マッチ売りの少女』は、 結末にお金持ち のおじさん が登場して、  (何故お金持ちのおじさんを設定したのだろう、   成金のアメリカ人らしいと云えば言えなくもないかな。   何れにせよ、幸せは裕福なおじさんがもたらすだなんて、   あまりにも安易な構想だ) 幸せな未来を予感させるエンディングに

君の誕生日だね^^       

一羽来て啼かない鳥である              山頭火 鳴かないすずめも淋しかろう              あきのの

小さな靴屋さん        

それは、以前住んでいた町にあった。 板の間の真ん中で四角い座布団に座っているのは まん丸ロイドメガネのおじいさん。 小柄で、職人気質で、ちょっと偏屈。 けれど、話が弾むと陽気な一面をのぞかせてくれる。 「待っていれば、すぐ直してやるよ」といってくれるから いつもおじいさんの脇に座って過ごしたものだ。 コンコンとハンマーの音を響かせて修理が終わると 「今どきの靴の修理はなってないよ。 あれじゃますます靴が悪くなるのさ、大切に履きなよ」と メガネ越しに笑う。 あれから過ぎた時間にいろいろなことがあり 町を去ることになったある夏の夕方 さよならを言おうと、久しぶりに訪ねたのだけれど ちいさな丸い背中が振り向きもせず呟いた。 「今月で店仕舞いだ、もう直してやれないからね」 こころが何かでいっぱいになるのを覚えても 返す言葉が見つからない。 伝えたいことが言葉にならない。 そうだった、 あの頃、わたしに起きた悲しい出来事に耐えられず あんな奴らが生きているのも許せなくて 普通の人々の幸せすら、苦々しく思っていた。 胸の中のものをそのままさらけ出したら 吐き気をもよおすほど、きっと心は醜かった。 偶然、ここに来るようになって 小一時間を過ごし、わたしはあなたに救われた。 土砂降りの雨の、夜だった。