マッチ売りの少女       



ニルマル・ヒルダイ(死を待つ人々の家)という施設がある。
(NIRMAL HRIDAY)
*ニルマル・ヒルダイの意味は「清らかな心」。 
 ああ、清らかな心ってなんだったのだろう。
 久しく御目文字あずかってないし…。




『死を待つ人々の家』は、
1952年マザーテレサによってカルカッタに設立された施設だ。
施設がカーリー寺院の隣接して建てられていることから
カーリーガート(死を待つ人の家)とよばれている。
『死を待つ人の家』は重篤な人々を対象に、
信仰をもとに尊厳死を重んじたホスピスである。
日本で云えば「緩和ケア―病棟」かもしれないが、
そもそも緩和ケア―などに入れる余裕などない貧しい人々の最後を
静かに看取る施設だ。
もちろんここでの死は高齢者だけのものではないし、
まして悟った賢者らが辿り着く、
「生かされている」「生かされてきた」の心情でもないように思う。
ここには、黙して語らず「受け入れていく」無言の命がある。
「生かされている」と悟る賢さなどないわたしにも、
全てを受け入れることが出来る静かな生き方がしたい。



友人宅で原書に忠実に訳したという
絵本『マッチ売りの少女』を手にした。
絵本のイラストはとても味わい深いものがあり、
そこには、今どきの漫画的かわいいキャラクターがいない。
子供の様なバランスを持つ、かわいいお爺さんお婆さんもいない。
そして書き換えられていない物語は、
男女を問わず、全ての年代に扉を開く。

そうだね、わたしが記憶している『マッチ売りの少女』には
死の結末があった。
当時は理解の外の文脈もあったりしたものだけど、
「これって何?」「どうしてなの!」ってね。
マッチ売りの少女の死に場所が凍える町の片隅だったことに、
小さなこころは説明のつかない痛みを覚えながら、
当時はマッチ売りの少女がわたしの隣にいるような気がして、
わたしがここで泣いちゃいけない、
少女は泣いてなんかいないのだから…。
そう思った記憶がある。

アメリカに最初に渡った『マッチ売りの少女』は、
結末にお金持ちのおじさんが登場して、
 (何故お金持ちのおじさんを設定したのだろう、
  成金のアメリカ人らしいと云えば言えなくもないかな。
  何れにせよ、幸せは裕福なおじさんがもたらすだなんて、
  あまりにも安易な構想だ)
幸せな未来を予感させるエンディングに書き換えられた。


久し振りに手にした『マッチ売りの少女』には、
今どきの絵本の漫画チックな、かわいいキャラクターがいない。
子供の様なバランスの、かわいいお爺さんおばあさんも登場しない。
そして絵もストーリーもしっかり息づいている。
大人になっても読みごたえのある幅広い思考を許してくれる。
何といっても、わたしが記憶している『マッチ売りの少女』には
死の結末があったのだ。


それにしても喜怒哀楽に揺れて、
わたしが生きてきた時間はどこへ消えてしまったのだろう。
今、ここに私は存在しているのに、
時間はあらゆる空間で同じように経過するものではないどころか、
過去と未来の境界はどこにもありはしない。
だた、突然、暑苦しかった夏が駆けだしたように感じ、
日の出、日の入りの記憶の数だけが過ぎる…。
少女が擦ったマッチの数と同じ数の年月が流れただろうか?

『死を待つ人々の家』に冬の気配が居座っていても、
マッチ売りの少女がそうであったように、
人々は懐かしい笑顔に出会い、温かいその腕に抱きしめられる。

受け入れて行く人生とは、そうしたものだから^^



コメント

kanata さんの投稿…
刺激されてアンデルセンの人生の軌跡を簡単に探してみました。
思えばアンデルセンの童話は…悲しい余韻をのこすものが多かったです。
「死ぬ以外に幸せになる道はない」(とても共感します)
生い立ちの悲惨さがずっと影響を与えすぎています。
一番好きなのは「幸福の王子」のツバメです。
あきのの さんの投稿…
「幸福の王子」のツバメ、私も好きです。

確かに悲しい余韻がのこります。
でも、温かい腕に抱きしめられるぬくもりもある気がします。