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文化的な死 

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高齢社会の次に訪れると話題の多死社会。 2039年日本は、死者数が167万人に達するらしい。 そんな中、日本の死の定義も、 先進国並みに大きく変わってきている気がする。 日本の死の定義を調べると、 「生物的な死」「法的な死」「文化的な 死」の 3つの視点があるようだ。 生物的というのは、生活機能が停止した状態を指す。 つまり人間の死は、従来、 「心臓が 停止・呼吸が停止・瞳孔が開く」 といった3っの兆候で判定される。 では法的に死んだとされる瞬間は…、となると、 必ずしも、生物的な死と同じではないと言う事になる。 しかも日本では、 1997 年の臓器移植法成立を機に、 法的な死にダブルスタンダードが生じているらしい。 脳死での臓器提供を前提とする場合には 「脳死が死」。 提供しない場合には「心臓停止 が死」となる。 つまり、 法的に死んだと判定される肉体的状況は 人によって異なるし、 臓器提供を前提とせず、心臓停止が死であっても、 法的な死と生物的な死が一致し ないこともある。 たとえば、癌などで闘病の甲斐なく心肺停止となっても、 遺族や本 人が蘇生措置を望めば、 まだ死んでいないのだ。 もちろん蘇生を試みない場合に はこの時点で死んだと判定される。 医療技術の発達で「法的な死の瞬間」を 選択で きる時代になったということだろうか…? そして文化的な死は、それぞれの国の文化に根差している。 個人的なことだけれど母が死んだ時、 姉の家族は海外で暮らしていた。 母の訃報を聞く姉は 子供みたいに泣きじゃくる。 さりとて今の今、チケットが取れる確率は低い。 ましてや海の向こうである。 「母に一目会いたい」と懇願する姉の想いは、 荼毘に臥す前まで母は生きているとの死生観を持っていた。 喪主は荼毘に臥すのを一日延期して、姉の願いを叶えた。 そう言えば日本では火葬するまで、 遺体を生きてい るかのように扱う風習がある。 少なくとも火葬して遺骨になるまで…。 否、もっとかな、母の遺骨をペンダントにした妹は、 「いつも一緒にいる気がするの」と目を赤くした。 なるほど、 彼女たちにすれば 母は死んじゃいないのだ…。 死んでも、静かに休んでいられそうにないね。母さん。