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誰が食べるの

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太陽や月が欠ける現象を 蝕甚 :月蝕 (食)、日蝕(食) と書く。 蝕はむしばむと言う意味をもつのだけれど、 月が影に隠れてゆく現象を「むしばむ」と表現するのは何故だろう? それは「欠ける」でもなく「食べる」なのだ。 月が欠けるのも修復が大変だが、 月を「誰が食べるのか」って、子供のころは不思議だった。 食べられたら月がなくなるのだと思った。 ちゃんと返してくれなければ… それからは良いのか悪いのか、 私も少し賢くなって望遠鏡も買った、夜な夜な三脚も立てたものだ。 今夜の「皆既月食」は厚い雲が出張ってきているし、 もう気力もないからNAOJの中継を見ていた。 時々他の中継に浮気しながら^^ 落胆のため息が聞こえそうなチャットが駆け足で流れる。 私としては、雲の向こうを透かして見せてくれるかなと、期待もしたけれど… そういえば、スーパームーンでもあったんだね。 今追いかけたら月の下に行くことが出来るかも知れないと錯覚するほど大きくて。 でも、月はつれないもので、近づけないどころじゃなくて遠ざかっていく。 科学者たちはそれを「月の後退」と呼ぶ。 月光を蝕む地球(月食)と少しずつ離れゆく月の時間、 時間って不思議なドラマだ。 50億年後、太陽系の存在そのものも確かなものじゃないけれど、 そうした不確かにつながる時間をいつまでわたしは生きているのだろう…。 生きてる時間の存在って何なのだろうとこの頃思う。   ▲三鷹キャンパス(部分月食):国立天文台 ▲石垣島天文台(皆既月食):国立天文台  学者さんが写した皆既月食、借りた身なのに生意気ですが、  美し過ぎて、少し寂しい(ごめんなさい)。

ボロボロのきものを脱ぐ 

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人生には転機があるものだ。 これが最後の転機になるのかな…、そう思う。 今月中に最後の本焼きを終了して、 来月75アンペア―の電気契約を40アンペア―下げる予約を入れる。 「しろうと本窯を築くべからず」も(時間とお金がかかり過ぎ)理解したし、 しかも吾を忘れて没頭していた素朴さがなくなった(致命的)。 一体何をやっているのだろうと、空虚感が大きすぎるこの頃だ… けれど往々に、人生とはそんなものかもしれない。 否、「広義の人生とは…」ではなく、私の人生はですね。 けれど幾らかの人も何らかの空虚を抱えていて、抱えた記憶があって、 そうした空虚感を癒そうと何かに没頭するのだけれど…、 色々な意味で思い上がりが全てを台無しにすることがある。 結局内面の空しさは埋められることもないままだ。 恋人との関係に例えれば、心理的距離が近くなればなるほど 愛と憎しみの相反する葛藤がつのるってところに似ているかな。 フロイトはそんな恋人の心理状況を比喩して 『ヤマアラシのジレンマ』と名付けた。 「ヤマアラシのジレンマ」は 『随感録』(ショーペンハウアー)に収録されている逸話だ。     やまあらしの一群が、冷たい冬のある日    お互いの体温で凍えることを防ぐためにぴったりくっつきあった。    だが、まもなくお互いに刺の痛いのが感じられて、また別れた。    温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされる。    やまあらし達は近づいたり離れたりを繰り返し    やっと、ちょうど良い距離を見つける…    こうして彼らがついにあみだした中くらいの    そして共同生活がそれで成り立ちうるほどの隔たりというのが    節度ある上品な風習(社会でのお付き合いのあり方)だ。      この隔たり(距離感)のおかげで、    おたがいに温めあおうという欲求は    不完全にしか満たされないけれど、    かわりに刺でさされる痛さは感じないで済むのだ。 面白い例えだ。 長い間、話はこれで終わりだと思っていた。 しかし改めて本を手にしたら、ハウワーの話は続きがあった。     しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は    面倒をかけたりかけられたりしたくないために    むしろ社交界から遠ざかっているのである。 社交界だなんて訳されると遠い世界のようだけれど、 たまに日本人の