共感疲労          



『ぼくたちは見た』 /ジャーナリスト・映画監督:古居みずえ
●ガザ紛争(2008年12月から2009年1月)


イスラエル国防軍とパレスチナのガザ地区を統治するハマス、
両者の間で勃発したガザ紛争、紛争後のガザを子供の声が綴る。
ガザへの侵攻、ガザの人々に監獄の様な暮らしを強いたイスラエル。
もちろん、現在進行中の紛争においての、
「自国防衛の権利」を主張する単純な言い分も、納得できない。
まして、ヨルダン川西岸地区での虐殺を伴う入植政策が
正当化される筈など無いのだし…、


映画を観て間もなく、なんだか引っ掛かる違和感。
きっとガザの子供の言葉が日本語に訳されるとき、
幾つかの個所に大人の言葉遣いが散見されたからだと思う。
それが私にとって妙に鼻についた。
そうよね、よくあることだけれど、ある意図をもって…、
あるいは、これもよくあることだろうが無意識のうちに…、
映像や子供の声がふるいにかけられ、足し算引き算が加わる。
それが、記者たちが記事を書くときのスタンスにある。

私が感じた違和感は、何となくなのだが、
表題は「ぼくたちは…」となっているのだけれど、
本来は「ぼくは…」で表現する方がしっくりくると思った。
一人ひとりの声というリアルさがどこかに飛んで、
取材者側、製作者側(訳者?)の記者のスタンスが頭をもだげた。
それが「ぼくたちは…」の「たち」に反映された。

多分、記者は弱々しい取材であっては人を動かせないと思う。
こうした記事の注目度の神髄は、いかに衝撃性を必要とするか…。
そんな製作者のバイアスが無意識に働いたに違いない。
つまり表題の「たち」という複数形の中に、
製作者たちの思惑が存在しているのだ。

字幕の訳が私を現実に引き戻すから、
私だって私を傍観しながらゲームの中の戦争を観ている距離感になる。
これが、「ぼくは…」と「ぼくたちは…」の距離間だ。
「ぼくは…」という表題が適切だと思う私の違和感だ。


帰宅後の数日間、
「ぼくは…」という私は、疲労感の中で過ごした



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