ブッダとタゴール 



「人々は残酷だが 人は優しい」Rabindranath・タゴール

そうだね、「人々は残酷だが 人は優しい」
昔はね「うんうん」ってね、納得したものだ。
だけどこの頃、残酷さを示すのは人々ではなく、
ブッダの言う通り、そもそも人は残酷で身勝手なのだと分かってきた。
つまり、人は優しいのじゃなくて弱いだけのこと。
弱いがゆえに持つ渇愛と言う事実を直視し出来なくて、
それを「その弱さこそが人間ぽいんだよね」だなんて
砂糖をまぶした曖昧な言葉でカモフラージュする。

俗に言う仏教を創始したなどと露ほども思っていないブッダは、
欲望を中核とした人間観を持っていた。
つまり、人間の人格の中心にはやむにやまれぬ生存への執着があり、
それを中核として欲望が網の目のようにのび、世界を形造っている。
この欲望によって世界像は歪んでいると言っているんだね。
つまり、人間存在の根本は渇愛があり、
れがつる草のように蔓延って人格を形成している。
彼はこの欲望から自己を自由に開放しなくちゃいけないなんてね。
「無執着」「無一物」という言葉が飛び交った。



つまるところ、
タゴールの「人々は残酷だが 人は優しい」のではなく、
そもそも人は、自己浄化しなければならない妄執の汚れにまみれてるってことらしい。

簡単に言えば、哀しいほど美味しいものを食べたくて、
おしゃれな服を着たくて、
訳の分からない鉱物で身を飾って、
瀟洒な家に住みたくて、
あちこちを優雅に遊び廻りたくて、
他者を配下に置いたり自分の所有ぶつとしたくて、
世間に一目置かれ社会的権威や権力を持ちたくて…
時に「ささやかでいい」だなんて言ってみたりしながら、
あちこちに欲望の目を萌芽させて、
執着から逃れられず生きているってことかな。


だからだね、そこの執着から逃れられないから、
人間が持っている残酷さを同伴させる。
と言うより気付きもしないであらゆる真実から逃げる。
時に某国みたいに神の意思だなんて理屈をつけたり、
身勝手な正義の御旗をたてたりしてね。

全て、それらの本質は君の中、人間そのものにあるのに…
「人間 とは何か?」とか、「人間の本質とは何か」などと問いかけ、
哲学的な思考と実証的な調査で答えを出そうとすることなんて、
そもそも無理なのかも。

タゴール君、人と人々の残酷さの違いは、
みんな(人々・仲間)で渡れば怖くないってこと。
そう、ただそれだけのことなのだ。






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