神とあらそいごと

 


世の中は師走を迎えたのだ。
早いものだ、もうじき正月がやってくる。


古代バビロニアやエジプトでは日の出、
アラビア、トルコ、ユダヤでは日没が一日のはじまりだった。
ヒンドゥー暦、イスラム暦、太陰太陽暦、太陽暦によって、
一日のはじまりが違えば、一年のはじまりも違う。
多民族国家は大変だろう。
日本は、旧正月の言葉は残っても、行事は姿を消した(?
太陰暦で正月を祝う習慣は中国をはじめに、アジアに多く残っている。
少し意外なのが、イランの春分の日のお正月や、
ヒンドゥー教の10月下旬から11月頃のディパバリ。

地球上に民族や宗教はかなりの数だし、
未接触の民族って、まだ存在しているのかもしれないし、
調べれば、それぞれの民族や宗教には様々な好日のはじまりがあるのだろう。
思えば世界の片隅で生きる一人ひとりの誕生や人生の機微365日のすべてが、
日々是好日なのだとも思う^^

と、思うのだけれど、
人間の権力や思惑や愚かさというか、プライドや歴史観においても、
世界の宗教や民族の価値観が平和裏に共存するのは、
簡単なことではないようだ。
日本に居住する少数民族の少数宗教のささやかなお正月は、
それぞれちゃんと行われているだろうか。
大和民族の定義によるし、私の知識では何とも言えないけれど、
日本にどれくらいの民族が共存しているのだろう。
下町で民族や宗教の小さないざこざは散見されるけれど、
不思議なことに日本には、世界一宗教が多く共存しているようで驚くのだ。
とりあえずは宗教に寛容な国民性ってことだろう…(?
確かに八百万の神の国だし…、とも思う^^



  ▲柱に記された一つの結界。
  「ここから先は殺生ならず」という境を記している。
  日本建築における襖や障子はもちろん、
  衝立なども広義の結界とされる。
  不思議だが、現実障子は紙一枚の建具である。
  にもかかわらず、障子一枚だが閉められていれば、
  障子の向こう側の声は聞こえないとする文化が日本にある。
  閉められている以上は「聞かない見ない」という礼儀だ?
  そんな日本の精神文化が、
  多様な宗教の共存を可能にしているのかも知れない。


けれど、その実態を見たこともないのに神を持った民族は、
目も当てられないほどに神に絶対を置いた。
神がいっぱいなのは、それはそれでいいのだけれど、
問題は民族の数だけ宗教があり、宗教の数だけ神があることに加え、
彼らの神たちは他の神を受け入れず、共存することを拒むのだ。
偶像崇拝の神も偶像崇拝を許さない神にも
全ての神をわたしはこの目で見たことが無いし、
誰が神を見たのだろうかも、わたしは知らない。
ただ、愚かしく思うのは、そんな形もない君の神が、
何故、人間に命を掛けた殺し合いをさせるのか。

一つ、神が無くなれば、
一つ、殺し合いが無くなるかもしれない。



コメント