価値観             





そう言えば、いつだったか? 
ネット配信のニュースをクリック。
時を置かずして二つの話題が目に留まった。
  
一つは「《花かごを持つ少女》一億125億円で落札」
もう一つは「学生食堂の壁画《きずな》がリフォームで廃棄処分」



アート性から言えば価値はさほど高くないバンクシーの風刺画に
話題を仕組んだのは誰だろう?
そう、仕組み方で価値が変わる。
バイヤーやコレクターたちの思惑が行脚するのが透けて見える…。
もっとも日本では、爪を色とりどりに塗ったり飾ることを
ネールアートというのだから、既にアートという言葉自体、
正面から論じるものじゃなくなった時代なのだろう…。

5~6年ほど前、日本の精神障害者の絵がEUで持て囃された時期があった。
「コレクターたちに普通の作品は飽きられてますから…」という言葉に、
日本の精神障害者の作品に目をつけたEUのバイヤーの本音が見え隠れした。
日本の精神障害者は普通じゃないから価値があると言うことなのか…?
オリンピックIOCの表とその裏にある事情と同じだ。
大衆を食い物にするほんの一つまみのバイヤーやコレクターに
投資マネーが飛び交うのだ。

もちろん矛盾だが、それで生きがいを見つけた障害者もいるし、
どんなに矛盾だらけの土壌であっても、
そこに繰り広げられるスポーツを観戦して
感動や勇気を貰った人もいることは事実で、
だからそのこと事態は無意味ではないだろう。

しかし少なくとも、それらの全てをひっくるめても、あれもこれもどれも、
価値観という幻想の屍と褥(しとね)だと言うことは確かだ。
 

もちろん、ピカソと宇佐美の、
二人の芸術家に、否二つの作品かな?
それらに与えられた対処の差(作品の価値)を比較する気も、
そんな知識も持ち得ないけれど、私の価値観から言えば
お金を積まれても欲しくない《花かごを持つ少女》であることは確かだし、
ゆっくり鑑賞していたい作品でもない。
オークション会場で跳ね上がる、実態があるとは思えない価値観にほくそ笑むのは
コレクターとバイヤー、そして肩書に〇〇研究員が付く一部の人なのだろうか。
なんだか、落札された値段が作品の評価につながるという幻想を
理解したい資産家(コレクター)の傍には寄り付くこともできやしないし、
世界がひっくり返っても寄り付けやしない者の、犬の遠吠えかな^^

けれど、そうして確立した価値観のフィルターで、作品鑑賞する大衆も、
遠い世界の人達に思える。




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