ゾウの時間  




去年のテキストのつづきです。


私たちは教育の中で、
時間を絶対的な単位で捉える物理学を学んだ…? 多分。
だから、あなたも私も世界中の人が、各々生きている時間が
どんなに違うかもしれないなんて疑うことなく生きている。
そう、一分、一秒を同じように刻んで生きていると思っている。
そして同じように、そこに存在していると思っている。

ガリレオは邪魔するもの(空気抵抗の力学)が無ければ、
鉄の塊も鳥の羽も同じ速度で落下するといったのだけれど、
何年前だったか、ゾウの時間ネズミの時間という本を読んで、
私はゾウの時間を生きているかもと思ったのだ。


つまりこうだ(理解力が未熟かな^^)。

一分一秒が同じように流れていると思うのは人間が決めた事であって、
他の動物にはそれぞれ違う時間が流れているというのだ。
ゾウもネズミも一生の間に打つ脈の総数はほぼ同じで、
ゾウは70年ほど生きるが、脈拍数はネズミの寿命と同じ15億回。
ゾウもネズミもそれぞれの一拍を時間の単位として捉えれば、
ゾウもネズミも同じ年齢の一生を生きたことになる。
そこから導き出され、理論づけられていたのが、
サイズによって時間の感じ方が違うのではということだ。
ゾウとネズミでは体重が10万倍違い、時間は18倍違うだろうから、
ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくり流れているということになるらしい。
時間の流れる速さの感じ方が違うと言うことは、
機敏に動くネズミはゾウにとって目にも止まらない速さに映り、
ゾウはネズミにとって、微動だにしていないように映る。
だから、ゾウとネズミをとても高いところから落とすと、
邪魔するものが無ければ同じ速度で落下することになるから、
ネズミが感じる落ちてゆく時間はゆっくりで、
ゾウが感じる落ちていく時間はあっという間だというのだ。
落ちていくという同じ条件下の時間の中で、
ネズミにはゆっくりと時間が流れる。落ちながらネズミは死を哲学するかもしれない。
しかし、ゾウの時間には考える余裕などない、
落ちていく自分を認識することなくアッという間に落下を終える。

私はゾウよりとても小さいけれど、本当に鈍くて抜けたところがあって、
そうか、ゾウの時間を生きているのだと、そのとき思った。




さて、母の三つの教えは四六時中こころにあったわけではない。
必ずしも高尚な生命体ではないから小さな嘘を重ねて生きてきただろう。
それでも、大きな嘘をつくことは容易くはないと思ったものだ。
莫大なエネルギーも必要で、子供のころ公園にあった
油切れのシーソーのような音を立て、こころが軋む。
あの音は結構心に痛い音だった。

もちろん優しくあれば、優しくある本人も、何故かそれなりに傷つくもので、
優しくあることの難しさを痛感した。
若かったころは「優しくありなさい」などと言った母を恨んだものだ。
世の中そんなに奇麗ごとじゃ生きてゆけないんだからってね。

だからどうなのといえば、
そう、「命を知るものは巌牆の下に立たず」なのかも。
言葉だけなら、誰でもやさしくなれるものだし、
某国への批判は口先だけで、強かにアンダー外交をする欧米諸国。
そんな二律背反を聖人君子でやってのける国ということかな。
そうそう、「地球に優しい…」というときのやさしさに似ている。
地球が生まれた歴史をたどってみれば、....
それこそ、表面はドロドロに解けたマグマで埋めつくされた灼熱の時があり、
氷期と間氷期の繰り返されるたびに、生命体の多くが絶滅しているのだ。
そもそも二酸化炭素はいっぱいだったのだし、
「大酸化イベント」までは酸素などなかったのだ。
その時まで生息していた酸素を嫌う嫌気性生物にとっては、
地球の酸素が増えた事こそが環境の汚染以外の何ものでもなかったのだし。
そんな自然界の恒久的リアリティに例えれば、
的すら得ていない「地球にやさしい」の言葉に収束する行為のなんと多い事か。
人に優しくある時、思い込みや弱い自分自身の防衛機制があることも
忘れないでいたいと、ゾウの時間を生きて思うのだ。

















昔々だからもう執行猶予も終了した写真だ。
大学の四年間で少しは垢抜けしただろうか。
それともゾウに生きる芽が萌芽し始めた頃だろうか。
オオカミ、オオカミはそりゃ半端なく世の中に屯していた。
しかしその現象の裏には、驚くなかれ世界的にも歴史的にも
若い女性がパトロンを探すのは周知の事実だったのだから、
そんな現実を見透かしてか、若ければ歩いているだけでおじさんが声を掛けてくる。
モデルや女優のスカウトマンなどからも、数えきれないほど声が掛かった。
もっともここんところは母の「東京はオオカミが多いから…」が利いた。
だから、私が舞台の世界に入ったのはスカウトされたからではない。

それにしてもあれはコロナ前のこと、ストレートな欲望を聞いて驚いた。
「娘(中学生)を芸能界にデビューさせたいし、
出来れば私もパトロンを見つけようと思っているの…」ってね。
韓国整形ツアーに娘を連れていくという母親がいた。
そりゃ本人の勝手だし、子供も芸能界デビューを望んでいて悪びれた様子もない。
それって狙うのは男で、狙われるのは女という通念ではなさそうだ。
オオカミは男だけじゃないということかな…?


学生時代もだけど、どの世界も色々ある。
気が付けばバケツと雑巾が欠かせなかった。
しかしラッキーかアンラッキーか諦めのいい方で、
あれもこれもバケツ二、三杯で忘れていった。
私が死んだら、この肉体も全ての意識も消えるのだし、
私の意識が消えれば、世の中の全てが存在しなくなるんだから。
(自己中の思考ではなく、タゴールの生命哲学です…^^)
だったら人の心に言葉の刃物を突き立てる必要もない。


そう、そもそも時間など存在しないのかも知れないのだ。
死が、存在の実体を理解する最後の機会だとするなら、
落下するあっという間のゾウの時間は何だか私にふさわしいとね。
何故かって、時間と存在は不思議な関係なのだから。
けれど、「どのような関係か説明せよ」などと聞かないでね。
何となくそう思うだけで、さっぱり分かっていないのだから。

第一、側頭葉に記憶された存在の痕跡はバケツの水になり、
どんなに混迷し生きていたのだろうかと、
正体をつきとめようにも、欠片も見つけられず、
どのみち、時間ほど存在があいまいなものはないと、
ぼんやり思っているだけ。

もしも時間が存在すると言うなら、タイムマシーンで過去に戻り、
未来のために修正をかけることが可能…、ということになるのかな…(?


過ぎた時間を計ることは出来やしないのだけど、
インスタントラーメンが出来上がる時間を砂時計が刻む。
たった数分だけど、それがとても長く感じられる…
             
             この年齢になって
             やっと少し分かってきた事。

ゾウは心が空いていたのだけれど、それよりお腹も空いていたってこと^^



2022年
健やかな年でありますように




コメント

kanata さんの投稿…
ウェブリブブログが終わってあきののさんにも影響があったのかと心配していました。このBloggerとは別なんですね。お引っ越し先はどちらだろうと思ったりして。お引っ越しの必要はないわけでよかったです。
象の時間と蟻の時間。難しいけれど興味深く読みました。
自分も空腹な輩の一匹だと。
あきのの さんの投稿…
何処にも引っ越ししてません^^
memo/memoは完全に移行できていない記事やコメントがあり、そのままにしてあるものですから、時々感動した言葉をメモもいいかなと、そのまま残してあります。

何だか少しBlogger提供者側に色々変更があったようです。
適当に修正の操作していてコメント欄が消えていました。
おっちょこちょいで全く気付いていませんでした。
《自分も空腹な輩の一匹》の言葉に元気が出ました^^