上野駅            



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東北方面からやってくる集団就職列車が発着する18番ホーム。
専用ホームは既に廃止されたが、当時上野は東北の玄関口だった。

ドキュメントのナレーションが耳に付く。

私の学生時代、上野は既に廃れていた。
それでも、上野が「巡礼の地」さながらだったことがある。
一通りの文化施設が集積していることも要因の一つだが、
動物園にパンダが来た時と、美術館にモナ・リザが来た時だ。
まさに人の熱気が蛇行して行列が蛇のように連なった。
DJポリスではないが、「立ち止まらないでください」
と叫ぶ警備員の大出動だった。
パンダ鑑賞(?)なら許せても、行列を組み、
一時停止も許されない絵画鑑賞など有り得ないと、呆れた記憶がある。

それにしても、上野が寂れたのはいつ頃だったのだろう。
私が東京で暮らしていたころ既に
交通網の中心は東京駅であったことは確かだ。
しかし、上野美術館で鑑賞したモナ・リザが本物か偽物かは分からないが、
上野の駅は往年の風格を残していたように思う。
大きなコンコースが口を開けた、呑み込まれる記憶の中に薄暗い構内が蘇える。

―ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく―

「ねえ、あなた訛ってない」
東北を一歩も出ていないという女性に言われたことがある。
「ちょっと待って。その言葉、そのまま貴女にお返しするわ」
と言い返したものの、思い出したことがある。
先に上京していた兄の先輩に
ディナーとやらをご馳走預かった時のこだ。
打ち解け始め宴もたけなわにの話の途中、兄が付け足したのが
「田舎の山猿ですから、何を言っているかわからないでしょ。申し訳ない」
これこそ「ちょっと待て。申し訳ないってどういうこと」だ。
第一、こんな可愛い山猿めったにお目に掛れるものじゃないんだから。
それより、そもそも方言で喋ったからって、どうして謝らなきゃならないの。
言葉に出さなかったものの、ちっぽけなプライドは怒り心頭に発したのだ。

とは言え、東京で学生時代を終えると、
そのまま舞台の世界へ片足を突っ込んだものだから、
ちっぽけなプライドも、やや矛先を変えることになった。
その日は舞台現場の打ち合わせだった。
「共通語で話してくれない!その訛り、他の女優さんに悪い影響与えるんだから」
と、江戸っ子を自称する女からきつく叱責されたのだ。

そりゃ、舞台俳優はいろいろな方言を使うから、
その場にそぐわないアクセントは耳障りなのは分かる。
しかしだ、それは俳優としての力量不足でもあるんじゃないのと、
反発を覚えたものだ。
しかし背に腹は代えられず、田舎訛りを矯正したという苦い過去がある。

これらの話は笑って終わる類だが、
全く別に心に掛かる東北訛りの思い出が私にある。
それは、上野駅が「東北の玄関口」であったことを認識したときだった。
息子に会うために上京してきた義母を東京駅ではなく上野駅に迎えに行った。
当時再婚のわたしに、東北という保守的な田舎の風は冷たいもので、
義母は息子の葬儀にさえ参列を拒否したくらいだ。

そんな、古い仕来りや地方の常識に義母自身が涙したことがあったとしても、
弱みを見せずそこに生きる気丈さが、当時の私に理解できなかった。
理解できないという理屈を正当化した要因の一つが、
通訳を必要とするほどの東北訛りだった。
私はそこに胡坐をかき、面倒な問題を避けた。
そうして過ぎた全ては、穏やかに思い出せるものばかりでは決してない。
しかし、息子に会いに上京してきた義母を上野に迎えに行ったときの、
あれは背負子と言うものだろうか、丹精込め育てただろう野菜を背負い、
前かがみに上野のホームに降り立った姿を、忘れることが出来ない。

上野の駅は、義母のふるさと訛りが聞かれなくなったことを
惜しんでくれているだろうか。
それとも、「言葉は生きている」という言語学者の一言で、
眉間にしわを寄せていた大人たちが右へ倣えで納得し、
Z世代語録に先導される日本のコミュニケーションの変貌に、
時代を楽しんでいるだろうか。

あの上野のホームに降り立った義母の姿に、
私は重い野菜の代わりに心残りを背負ったように思う。
久しぶりの涙がこぼれた。



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