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小さな窓

  それから過ぎた日の 少し遅くれてのぼる十六夜月の夜でした。 ちいさな窓から差し込んできた光に 思い出したのは『絵のない絵本』 一人の貧しい青年に窓辺の月が語りかける三十三夜の物語。 月が語る物語は 気に留める人もなく過ぎてゆく。 それは忙しくざわめく人々にとって、 どうでもよい程ちいさな 出来事です。 けれど、きっと幾らかの人は そんな時間もいっぱいいっぱい生きている。 つつましく無抵抗で、どことなくこっけいな… あの日、ためらって昇った夜の月の 小さな小さな、ほんとうに小さな窓の片隅で。 私の手の大きさでやや卵形の 何千年も前に作られ、 色々な意味で生き抜いてきた。 つつましく無抵抗で、どことなくこっけいな― 何かをつたえるのではなく 自己表現をするわけでもなく                      けれど作り手とその生きた時代を内包し 映し出しているように見える。 その微かな力で・・・                     Hans Coper/1969

千秋の思い    

入院して四日目、私の精神状態は爆発寸前だった。 入院がこんなに苦痛なものとは思わなくて、 「通常、約一か月の入院です」と言い渡された時は途方にくれた。 それでも強引に主治医を説き伏せ退院を要求。 「明々後日、出張から帰ってきます。検査の結果でOK出しましょう」 と言う言葉を何とか取り付けた。 主治医を待つ二日間が、途方もなく長く感じられたものだった。 感じられる時間とは体験された出来事の数ではなく、出来事を「体験した」と認識するために必要な認知的負荷が大きいほど長くなることが示された。このような認知的要因が感じられる時間の長さに及ぼす影響は、従来考えられていたよりも強いことがわかった(千葉大 人文科学研究院/オープンアクセスジャーナルの「i-Perception」に掲載)。 ふむふむ、そういう事だ。 つまり、楽しいときは短く、退屈なときは長く感じる時間の流れ。 人が感じる時間の長さの違いは脳の認知的負荷で変化すると言う事。 ああ、あと二日、あと二日我慢したら退院できる。 たったなのかもしれない、「一週間で退院をするなんて無謀よ」 お世話になった25歳の理学療法士の女性が言った。 私は、一日千秋の思いで、主治医の戻るのを待った。

なんて      

こっけいな 軒下くらし 七夕が過ぎるころ 頬をかすめてゆくすずかぜに秋の気配を感じたものだ。 グレゴリオ暦の8月の中旬から下旬を行ったり来たり、 迷走しながら秋の気配を連れてくる。 当たり前のように幾つかの不可避を受け入れた。 それが人生というもの。 わたしは物知り顔につぶやいた。 「あらゆるものごとは なにごともなかったように消えていくものだ」ってね。 それからは、 眠れない夜っていうやつ、 そんな夜が増えた。 だからね、 軒下を ちょっとばかし抜け出した。 抜け出してはみたものの … なんてこっけいな軒下暮らしだろう。

明日も雨  

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そう、ちっぽけな私の悩みと同じだ。 だからだね、人類の悩みは数千年のときを経ても変わらない。 どちらにせよ、人格は個人的のようにも思えるけれど、 人間は社会的動物だから、 その環境を切り離しては考えられないものだし、 バーチャル社会は 複雑でお手上げではあるけれど、 そもそもリアル社会だってお手上げなのだから 。 80億を超える心は80億を超える心の勝手を生きているんだね。 地球は真っ赤に塗られているのに 予報士は「明日も線状降水帯が発生します」と言うから、 この橋を渡って、 雨にも負けず。

小さないのち 

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5㎜の天使(野生蘭)

付き合い  

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中国の思想や文学は総じて好きではない。 小人の交わりは甘きこと艶のごとし 君子の交わりは淡きこと水の如し そうかな、やっぱ偏った言い訳だ。

顔     

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急ぎ足で時間を追いかけて…。 そうじゃないかな。 津波のような時間に追いかけられ、 逃げるように生きてきたのかもしれない。 滲む汗を手の甲が拭う。 涙じゃないよ汗をね。 でも思う。              ▲二度と町を走ることのないローカル電車の顔 「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならない」 と言う言葉が気になったこのごろ。 マスクから解放される日常が増えて マスクでみえなかった時を生きていた顔がポロポロこぼれてくる。 その口元には、もう一人の人間が存在していた。 目は口ほどにものを語るわけでもない。 何故なら、マスクの下に隠れていた君の口元は 全く別人格を生きていたのだから。 ああ、そんなに意地悪く口元をゆがめてはいけない。 もうマスクは外されているんだから。