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メルケルさんの演説にダブル

ニュースが流れた。  ドイツで9日新型 コロナ ウイルスによる1日当たりの死者数が  過去最多の590人となり、  メルケル 首相が珍しく感情をあらわにして危機感を訴えました 日本の記事の扱いは英雄並みのお母さんとして、 彼女の演説が「心に響きました」と、 感動のまなざしを向ける言葉が幾つか躍った。 彼ら評論家が言うには、「手を上下させて感情を込める」 「国の指導者はこのようでなければならない」 「そうじゃないと国民はついてこない」 確かにそうだね。歴史が語っている。 内容は別にしても、ドイツの指導者ヒトラーの演説もそうだ。 アメリカの指導者トランプ氏もそうだ。 メルケル女史の 手を上下させて感情を込め、熱く語る演説の雰囲気に ナチスドイツの映画に登場した人物、 アドルフ・ヒトラー の姿が強くダブった。 激情型の演説は人を動かすようだ。 運悪く、経済優先が顕著な象徴として コロナ禍で露呈した移民の非道な扱いに 収容所が重なってしまったからかな。。。 情熱的演説が報道され、あちこちの国の大衆を熱狂させる、 何となくナチスドイツの ヒトラー を想起してしまった。 日本では、地味な総理に対して、 「メルケルさんのように感情を表に出して訴えろ」 とアドバイスをする人が続出だ。 世界は昔からおかしいままだけど、 このごろ何だかおかしい、日本・・・

海を飛ぶ夢 

年末になると思い出す。 安楽死を戦う家族の口から出た記録映画の映像が蘇った。 この映画は尊厳死を求めて闘った実在の人物 ラモン・サンペドロの手記/地獄からの手紙( 1996 )をもとに 彼の死後映像化されたものだ。     『海を飛ぶ夢』   原題はスペイン語で『内なる海』   スペイン・フランス・イタリア/伝記映画   「約束しよう自由になった魂で、きっとあなたを抱きしめる」  

やまとごころ

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いろいろ思うことはあっても… 思うだけじゃどうにもならないけれど^^ 武漢からウイルスがやって来たときは 例年のインフルくらいにしか思っていなかった。 そんな軽い情報提供だった ましてパンデミックを起こすなんて想定外。 ウィールスの正体を検証できなかったのは大きい問題だ。 某国とWHOの、初期のミスリード、 彼らも思惑と保身がもたらした事の大きさに気づいているだろうな。 それでも謝罪しないのはお国柄だろう。 特に某国の隠ぺい体質は今始まった事じゃないけれど、 特に今の指導者がそうなのかな~~~ 各国に多大な損害をもたらしたことに正面から向き合う必要もありかな(? そしてそこから波及した諸々のデモや暴動、 EUも黒人も白人も、すこしクールダウンが必要だしね。 「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに!」 確かにそうかもしれないとは思う。 でもそこには、日本語言語に培われた日本の精神文化っていうものもある。 人は使用言語によって構築される社会の中で、精神的価値観を形成していくものだ。 シャルルマーニュの「第2の言語を持つのは 第2の魂を持つことである」だね。 その長い(言語の起源の合意は見ていないけれど)歴史の中で 日本人の多くが「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに」 という体質が形成されたのだと思う。   日本には「嫌よ嫌よもスキのうち」って言葉がある。 口先では嫌いだといっても実は好きだったりする、と解釈するのだけれど、 「嫌い」の語彙に「好き」が同居するわけだ。 この解釈は特別なことじゃなく、日常にあって、 心に全く反対の本音が潜んでいることもあるってことを了解するから、 「嫌い」というの言葉に執行猶予を与えるという、 ちょっぴり面倒な恋のやり取りがあったりする。 そんな日本人のはっきりしない揺れる恋心の機微は お暇なときにでも『源氏物語』を読んでみてね^^ そしてもう一つあげてみると、 フランスで起こったイスラムのテロに対して 「私たちは表現の自由を守る」というときの「自由」 もちろんテロの非道は許されるものじゃない。 しかし大統領が一つ覚えのように言う「表現の自由」とは、 いったい誰の為のものなんだろうとふっと思った。 よく考えると…、じゃなく、よく考えなくたっ

ポーランドとホロコースト

ポーランド上院が ナチス・ドイツによるユダヤ人などの大虐殺(ホロコースト)について ポーランドが加担していたと批判することを違法にする法案を可決した。 この法案は、ナチス・ドイツがポーランド領内に作った強制収容所を 「ポーランドの…」と呼ぶことも禁止している。 違反行為には罰金刑もしくは最長3年の禁錮刑が科せられる事になった。 どちらにも譲れない真実(歴史認識の違い)があったとしても そこに生じる憎しみの連鎖は、なんと悲しいものかと思う。

そんなところでふて寝かよ!

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私達の頭の中に描かれている空間は、既に立体…。 人間の認知は再構築されて意識される。 遠くに楕円に見えているテーブルを円テーブルと理解していても、 頭の中では楕円に認知されている。 平面的情報が入力されても、人間は立体空間を認知する。 子供の頃のほんの短い時期を覗いて、 それは大人の視界認知で不通に処理される。 これを視覚の『恒常性』と言う。 イメージは再構築され認識されることで、 その人の視覚の恒常性が邪魔(?)、 もとい、邪魔じゃなく働いてくれているから^^ 私たちは日常の活動を維持できるということになる。 つまり恒常性は人間に与えられたというか、 多くの生物が獲得した、生きる術だ。 本来はさまざまな環境の変化に対応して、 生存を維持するために備わった能力らしく、 生態的には 主に神経やホルモンによって行われたりするもののようだ。 けれど アートの世界に視覚の恒常性に挑戦したのが ピカソやブラックたちじゃないかって、そう思う。 そんな恒常性は視覚の世界(アート界)だけじゃなく、 人間の生き方にもあると、このごろ思っていて、 例えば、 「それが常識です」という狭い世界のイロハとか、 「これが真実です」とする自分本位の知識とか。 (あなたが無知なんだって言わないでね^^) 「専門家ですから」という確信の正義とか。 「やれることは全てしました」 「あなたのことを、わたしはこんなに心配しています」 と自分で納得する(?) 納得じゃないかな^^、 大衆を錯乱させる絜矩の道みたいなもの…? 近頃、狭い社会の知識の恒常性(?)とも擦れ違うことが多くなったし。 それらは多分、生きる賢さに違いないのだろうけれど… そんな多種多様な恒常性に、なぜだかこころが疲れ気味の人も多いだろうな。 わたしが解さないだけのことかもと、振り返ってみてもね。 今じゃ、多種多様な恒常性にこころも折れ折れだ。 だからと言って、そんなところでふて寝かよ!

一日のはじめ

ソーシャルネットで政治が動く時代 一日の初めは古代バビロニアやエジプトでは日の出。 アラビア、トルコ、ユダヤでは日没が一日の初めだった。 (太陽暦と太陰暦の違いkana) 前2世紀ごろエジプトの天文学者プトレマイオスが 正午から正午を均等に24分割するまで 昼と夜の長さは日々異なり、別々に12等分していた。 この「12」という数値の神秘。 「12」はシュメルの1年を12ヶ月としたところに起源があるらしい。 つまり、1年がだいたい12朔望月からきていて 古代の人々の興味深い数値だったようだ。 1年を360日としたバビロニアの時代 月の満ち欠けが約30日(正確には29.5306…日)であり 12ヶ月で360日を1年として、月が一周することになる。 そして一日は昼と夜でそれぞれ12分割していたけれど、 12×2=24として一日を24時間にする考えにいたっても不思議じゃない。 そして現在使用されている時間の60進法 (1時間=60分)という考につながった。 *でも、一年が360日だと5日程足らないだけど、  このズレのお話は長くなるからここでは省略して(汗   要するに「12」はとても扱いやすい数字。 12は10よりも約数が多く、10が持たない利点を持っているということ。 つまり割り切れる約数の多い数字なのだ。 だから12進法が使用されていったらしい。 そう言えば、 1年を3ヶ月×4分割(春夏秋冬)にもつながる^^ あ~!今宵の、あなたと大切な人とのデート、 それを可能にしてくれていたのは そんな古代の星月夜に生まれたなんて なんだか、、、悠久のドラマだ…❤~ なのだけど!!! 空を見上げてきめたグリニッジ標準時も今じゃ遠く、 1967年から「協定世界時」とやらを使っていてる今日。 協定世界時はセシウム原子時計によって刻まれる国際原子時を基に 国際的に管理されているものらしい。 誤差は3000万年に1秒程度だと言うのだから 1年を360日で暮らしていた古代の5日の誤差(?)に比べたら遥かに凄~い! 凄いのだけど…、 あのドラマチックなロマンはどこへやら。 5日の誤差を知って暮らしていたエジプトの民は ナイルの恵みのサイクルを享受して、 何の問題もなく暮らしを営

彼らはどこにいるのか(Ubi sunt?)

そうだね誰にもいろいろあるけれど… 今も昔も若い恋が描くストーリーは無謀なことがあるものね。 今じゃなくても、まだまだ時間はいっぱいあるし、 慌てなくても君はお母さんに似て美人なのだから、 そう思ったのだけど…^^ 時は、瞬きに過ぎてゆくものだから。 今の君にしかできない事って確かにある。 そう、きっと「命短し恋せよ乙女」だ。 主人公とブランコの揺れる光景は幾度か繰り返され、 そしていつか、ブランコだけが揺れて残る。 そう、君がこれっきりしかないような恋をして、 沢山の時が過ぎ、沢山の厳しい冬を乗り越え いつか、繰り返される人生を振り返るだろう。 そして過ぎた日を重ねる時が来る。 君は 「彼らはどこにいるのか(Ubi sunt?)」と尋ねるだろう。 けれど、なつかしい姿はそこに無いかもしれない。 でもその寂しさは、 きっと、宝物になるのだってね、 そう、思う。