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世界最古の物語

世界最古の物語が更新されるかも知れない。 ちょっと古いのだけど去年のNATUREの記事、 「世界最古の物語が、4万年以上も前の壁画に記録されていた」 世界最古となる43,900年前の“物語”が、インドネシアの洞窟で壁画として見つかった。狩猟の様子を描いたとみられるこの壁画は、宗教信仰を示す世界最古の記録であり、既に当時の人々がフィクションの概念をもっていたことを示す可能性がある。 最古の岩絵自体は何年か前に、 7万3000年頃に描かれたとされる壁画が南アフリカで出土した岩に発見された。 ところが今回のインドネシアの洞窟で見つかった壁画は、 ただの絵ではなく物語性があるということらしい。 当時の人々がフィクションの概念を持っていたことを示す可能性があるというのだ。 これまでに、欧州で発見された1万4000年~2万1000年前の岩絵が あきらかな物語性を持った岩絵として最古だという説がでていた。 この辺の世界最古の物語発見はまだ確かなものではないのかも知れない。 古代ローマの詩人ホラティウスによれば「詩は絵のように」であり、 バロックでは「詩は絵のように絵は詩のように」となるのだけど…、 これが最古の物語と決定するには、物語の定義によるだろうなと思う。 P1040425.jpg 何万年も前の人々にとって自然は理屈なく驚異であり、 そりゃ人間なんて小さな存在だったに違いないだろうし、 彼らにとって自然が震えるほどの恐怖の記録であっても、 自然に祈るという意識は、この時代まだ顕在化していない気もする。 しかし、誇張された表現で残されているのは何故だろう? そこにフィクション性があると言うこととは思えないけれど。 物語性が有るか無いかというそこのところの境界は 言葉(文字)を持ったか持たないかが大きな要因だという気がする…。 何れにせよ、学者とか研究調査チームは新説を立て論文にするのが仕事だ。 いろいろな説があっても可笑しくはないのだろうな。 ということで、 文字を持つ世界最古の物語は『ギルガメシュ叙事詩』かとも思う? 物語の原型は紀元前4000年頃に成立した古代オリエントで 幾つもの歴史的変動の時代を前後し、口伝で伝わったギルガメシュの物語は 楔形文字の書板に刻まれ、西アジアの諸遺跡から断片的に見つかっている。 物語の主人公は古来から美男美女が通り相場なのか、 叙事詩の主人

神とあらそいごと

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  世の中は師走を迎えたのだ。 早いものだ、もうじき正月がやってくる。 古代バビロニアやエジプトでは日の出、 アラビア、トルコ、ユダヤでは日没が一日のはじまりだった。 ヒンドゥー暦、イスラム暦、太陰太陽暦、太陽暦によって、 一日のはじまりが違えば、一年のはじまりも違う。 多民族国家は大変だろう。 日本は、旧正月の言葉は残っても、行事は姿を消した(? 太陰暦で正月を祝う習慣は中国をはじめに、アジアに多く残っている。 少し意外なのが、イランの春分の日のお正月や、 ヒンドゥー教の10月下旬から11月頃のディパバリ。 地球上に民族や宗教はかなりの数だし、 未接触の民族って、まだ存在しているのかもしれないし、 調べれば、それぞれの民族や宗教には様々な好日のはじまりがあるのだろう。 思えば世界の片隅で生きる一人ひとりの誕生や人生の機微365日のすべてが、 日々是好日なのだとも思う^^ と、思うのだけれど、 人間の権力や思惑や愚かさというか、プライドや歴史観においても、 世界の宗教や民族の価値観が平和裏に共存するのは、 簡単なことではないようだ。 日本に居住する少数民族の少数宗教のささやかなお正月は、 それぞれちゃんと行われているだろうか。 大和民族の定義によるし、私の知識では何とも言えないけれど、 日本にどれくらいの民族が共存しているのだろう。 下町で民族や宗教の小さないざこざは散見されるけれど、 不思議なことに日本には、世界一宗教が多く共存しているようで驚くのだ。 とりあえずは宗教に寛容な国民性ってことだろう…(? 確かに八百万の神の国だし…、とも思う^^   ▲柱に記された一つの結界。   「ここから先は殺生ならず」という境を記している。   日本建築における襖や障子はもちろん、   衝立なども広義の結界とされる。   不思議だが、現実障子は紙一枚の建具である。   にもかかわらず、障子一枚だが閉められていれば、   障子の向こう側の声は聞こえないとする文化が日本にある。   閉められている以上は「聞かない見ない」という礼儀だ?   そんな日本の精神文化が、   多様な宗教の共存を可能にしているのかも知れない。 けれど、その実態を見たこともないのに神を持った民族は、 目も当てられないほどに神に絶対を置いた。 神がいっぱいなのは、それはそれでいいのだけれど、 問題は民族の数だ

メルケルさんの演説にダブル

ニュースが流れた。  ドイツで9日新型 コロナ ウイルスによる1日当たりの死者数が  過去最多の590人となり、  メルケル 首相が珍しく感情をあらわにして危機感を訴えました 日本の記事の扱いは英雄並みのお母さんとして、 彼女の演説が「心に響きました」と、 感動のまなざしを向ける言葉が幾つか躍った。 彼ら評論家が言うには、「手を上下させて感情を込める」 「国の指導者はこのようでなければならない」 「そうじゃないと国民はついてこない」 確かにそうだね。歴史が語っている。 内容は別にしても、ドイツの指導者ヒトラーの演説もそうだ。 アメリカの指導者トランプ氏もそうだ。 メルケル女史の 手を上下させて感情を込め、熱く語る演説の雰囲気に ナチスドイツの映画に登場した人物、 アドルフ・ヒトラー の姿が強くダブった。 激情型の演説は人を動かすようだ。 運悪く、経済優先が顕著な象徴として コロナ禍で露呈した移民の非道な扱いに 収容所が重なってしまったからかな。。。 情熱的演説が報道され、あちこちの国の大衆を熱狂させる、 何となくナチスドイツの ヒトラー を想起してしまった。 日本では、地味な総理に対して、 「メルケルさんのように感情を表に出して訴えろ」 とアドバイスをする人が続出だ。 世界は昔からおかしいままだけど、 このごろ何だかおかしい、日本・・・

海を飛ぶ夢 

年末になると思い出す。 安楽死を戦う家族の口から出た記録映画の映像が蘇った。 この映画は尊厳死を求めて闘った実在の人物 ラモン・サンペドロの手記/地獄からの手紙( 1996 )をもとに 彼の死後映像化されたものだ。     『海を飛ぶ夢』   原題はスペイン語で『内なる海』   スペイン・フランス・イタリア/伝記映画   「約束しよう自由になった魂で、きっとあなたを抱きしめる」  

やまとごころ

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いろいろ思うことはあっても… 思うだけじゃどうにもならないけれど^^ 武漢からウイルスがやって来たときは 例年のインフルくらいにしか思っていなかった。 そんな軽い情報提供だった ましてパンデミックを起こすなんて想定外。 ウィールスの正体を検証できなかったのは大きい問題だ。 某国とWHOの、初期のミスリード、 彼らも思惑と保身がもたらした事の大きさに気づいているだろうな。 それでも謝罪しないのはお国柄だろう。 特に某国の隠ぺい体質は今始まった事じゃないけれど、 特に今の指導者がそうなのかな~~~ 各国に多大な損害をもたらしたことに正面から向き合う必要もありかな(? そしてそこから波及した諸々のデモや暴動、 EUも黒人も白人も、すこしクールダウンが必要だしね。 「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに!」 確かにそうかもしれないとは思う。 でもそこには、日本語言語に培われた日本の精神文化っていうものもある。 人は使用言語によって構築される社会の中で、精神的価値観を形成していくものだ。 シャルルマーニュの「第2の言語を持つのは 第2の魂を持つことである」だね。 その長い(言語の起源の合意は見ていないけれど)歴史の中で 日本人の多くが「何言ってんだ、イエス/ノーもはっきり言えない国のくせに」 という体質が形成されたのだと思う。   日本には「嫌よ嫌よもスキのうち」って言葉がある。 口先では嫌いだといっても実は好きだったりする、と解釈するのだけれど、 「嫌い」の語彙に「好き」が同居するわけだ。 この解釈は特別なことじゃなく、日常にあって、 心に全く反対の本音が潜んでいることもあるってことを了解するから、 「嫌い」というの言葉に執行猶予を与えるという、 ちょっぴり面倒な恋のやり取りがあったりする。 そんな日本人のはっきりしない揺れる恋心の機微は お暇なときにでも『源氏物語』を読んでみてね^^ そしてもう一つあげてみると、 フランスで起こったイスラムのテロに対して 「私たちは表現の自由を守る」というときの「自由」 もちろんテロの非道は許されるものじゃない。 しかし大統領が一つ覚えのように言う「表現の自由」とは、 いったい誰の為のものなんだろうとふっと思った。 よく考えると…、じゃなく、よく考えなくたっ

ポーランドとホロコースト

ポーランド上院が ナチス・ドイツによるユダヤ人などの大虐殺(ホロコースト)について ポーランドが加担していたと批判することを違法にする法案を可決した。 この法案は、ナチス・ドイツがポーランド領内に作った強制収容所を 「ポーランドの…」と呼ぶことも禁止している。 違反行為には罰金刑もしくは最長3年の禁錮刑が科せられる事になった。 どちらにも譲れない真実(歴史認識の違い)があったとしても そこに生じる憎しみの連鎖は、なんと悲しいものかと思う。

そんなところでふて寝かよ!

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私達の頭の中に描かれている空間は、既に立体…。 人間の認知は再構築されて意識される。 遠くに楕円に見えているテーブルを円テーブルと理解していても、 頭の中では楕円に認知されている。 平面的情報が入力されても、人間は立体空間を認知する。 子供の頃のほんの短い時期を覗いて、 それは大人の視界認知で不通に処理される。 これを視覚の『恒常性』と言う。 イメージは再構築され認識されることで、 その人の視覚の恒常性が邪魔(?)、 もとい、邪魔じゃなく働いてくれているから^^ 私たちは日常の活動を維持できるということになる。 つまり恒常性は人間に与えられたというか、 多くの生物が獲得した、生きる術だ。 本来はさまざまな環境の変化に対応して、 生存を維持するために備わった能力らしく、 生態的には 主に神経やホルモンによって行われたりするもののようだ。 けれど アートの世界に視覚の恒常性に挑戦したのが ピカソやブラックたちじゃないかって、そう思う。 そんな恒常性は視覚の世界(アート界)だけじゃなく、 人間の生き方にもあると、このごろ思っていて、 例えば、 「それが常識です」という狭い世界のイロハとか、 「これが真実です」とする自分本位の知識とか。 (あなたが無知なんだって言わないでね^^) 「専門家ですから」という確信の正義とか。 「やれることは全てしました」 「あなたのことを、わたしはこんなに心配しています」 と自分で納得する(?) 納得じゃないかな^^、 大衆を錯乱させる絜矩の道みたいなもの…? 近頃、狭い社会の知識の恒常性(?)とも擦れ違うことが多くなったし。 それらは多分、生きる賢さに違いないのだろうけれど… そんな多種多様な恒常性に、なぜだかこころが疲れ気味の人も多いだろうな。 わたしが解さないだけのことかもと、振り返ってみてもね。 今じゃ、多種多様な恒常性にこころも折れ折れだ。 だからと言って、そんなところでふて寝かよ!