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てがみ            

煙草の包み紙と一緒に、 懐かしい手紙がアルバムに挟まったままだった。 窮屈な場所で二~三十年余りの時間を過ごした手紙だ。 人間には、なかなか気付けないこともある。 なんと哀しいことかと、今思う。 出会ったのは君が十二の頃だったんだね あれから随分の時が過ぎてしまい 僕の髪がぱらぱら白くなり始めた夏だった 消息を風のたよりに聞いて、僕は東京へ君を訪ねた 「少し年を取りすぎたかな」と、口にする僕に 「私も同じ数だけ年を取りました」と君は笑ったね 僕は妻に「小さな恋人に会ってくる」といって出かけたのだけど 僕の気がかりをよそに、自然体で生きる君に驚いた 当たり前のことだけど、君は大人だった 君と会えるのもこれが最後かもしれない ややへこたれ、この手紙を書いている けれど胸の奥から、どうしようもない悲哀と一緒に 熱いものがこみあげてきたんだよ 妻は髪をくしけずる僕を横に 「まだまだ捨てたものじゃないですよ」といってくれた 僕は精一杯、男前でありたいと思った  見舞いにきてくれてありがとう  君に会えて、ほんとうによかった 色々ね、なんて勘違いして生きてきたのかってね。 きっと先生のこころを痛め、手を焼かせた どんなに多くの、小さな恋人がいたことだろう。 やっと戻ってこられたのだけど…。 開け放たれた土間を通り抜け、 手紙のインクを舐めるように風が吹く。 こんな閑かな時間が他にあるだろうか。

マッチ売りの少女       

ニルマル・ヒルダイ(死を待つ人々の家)という施設がある。 (NIRMAL HRIDAY) *ニルマル・ヒルダイの意味は「清らかな心」。     ああ、清らかな心ってなんだったのだろう。  久しく御目文字あずかってないし…。 『死を待つ人々の家』は、 1952年マザーテレサによってカルカッタに設立された施設だ。 施設がカーリー寺院の隣接して建てられていることから カーリーガート(死を待つ人の家)とよばれている。 『死を待つ人の家』は重篤な人々を対象に、 信仰をもとに尊厳死を重んじたホスピスである。 日本で云えば「緩和ケア―病棟」かもしれないが、 そもそも緩和ケア―などに入れる余裕などない貧しい人々の最後を 静かに看取る施設だ。 もちろんここでの死は高齢者だけのものではないし、 まして悟った賢者らが辿り着く、 「生かされている」「生かされてきた」の心情でもないように思う。 ここには、黙して語らず「受け入れていく」無言の命がある。 「生かされている」と悟る賢さなどないわたしにも、 全てを受け入れることが出来る静かな生き方がしたい。 友人宅で原書に忠実に訳したという 絵本『マッチ売りの少女』を手にした。 絵本のイラストはとても味わい深いものがあり、 そこには、今どきの漫画的かわいいキャラクターがいない。 子供の様なバランスを持つ、かわいいお爺さんお婆さんもいない。 そして書き換えられていない物語は、 男女を問わず、全ての年代に扉を開く。 そうだね、わたしが記憶している『マッチ売りの少女』には 死の結末があった。 当時は理解の外の 文脈もあったりしたものだけど、 「これって何?」「どうしてなの!」ってね。 マッチ売りの少女の死に場所が 凍える町の片隅だったことに、 小さなこころは説明のつかない痛みを覚えながら、 当時はマッチ売りの少女がわたしの隣にいるような気がして、 わたしがここで泣いちゃいけない、 少女は泣いてなんかいないのだから…。 そう思った記憶がある。 アメリカに最初に渡った『マッチ売りの少女』は、 結末にお金持ち のおじさん が登場して、  (何故お金持ちのおじさんを設定したのだろう、   成金のアメリカ人らしいと云えば言えなくもないかな。   何れにせよ、幸せは裕福なおじさんがもたらすだなんて、   あまりにも安易な構想だ) 幸せな未来を予感させるエンディングに

君の誕生日だね^^       

一羽来て啼かない鳥である              山頭火 鳴かないすずめも淋しかろう              あきのの

小さな靴屋さん        

それは、以前住んでいた町にあった。 板の間の真ん中で四角い座布団に座っているのは まん丸ロイドメガネのおじいさん。 小柄で、職人気質で、ちょっと偏屈。 けれど、話が弾むと陽気な一面をのぞかせてくれる。 「待っていれば、すぐ直してやるよ」といってくれるから いつもおじいさんの脇に座って過ごしたものだ。 コンコンとハンマーの音を響かせて修理が終わると 「今どきの靴の修理はなってないよ。 あれじゃますます靴が悪くなるのさ、大切に履きなよ」と メガネ越しに笑う。 あれから過ぎた時間にいろいろなことがあり 町を去ることになったある夏の夕方 さよならを言おうと、久しぶりに訪ねたのだけれど ちいさな丸い背中が振り向きもせず呟いた。 「今月で店仕舞いだ、もう直してやれないからね」 こころが何かでいっぱいになるのを覚えても 返す言葉が見つからない。 伝えたいことが言葉にならない。 そうだった、 あの頃、わたしに起きた悲しい出来事に耐えられず あんな奴らが生きているのも許せなくて 普通の人々の幸せすら、苦々しく思っていた。 胸の中のものをそのままさらけ出したら 吐き気をもよおすほど、きっと心は醜かった。 偶然、ここに来るようになって 小一時間を過ごし、わたしはあなたに救われた。 土砂降りの雨の、夜だった。

事実は小説より奇なり③

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そもそも、宗教を特別視する必要などないのだから。 宗教の自由は職業選択の自由と同じ時限で捉えて良いものだ。 宗教は人間の欲望の上に立つからこそ、 怖ろしいほど人間を支配する。 この欲望の神髄は、 生理的本能的なレベルから、社会的愛他的なレベルを含み、 心の働きや行動の全てを支配統括する。 よって野放しでは収拾がつかなくなることぐらいわかりそうなものだ。 まして税制の優遇処置など不要で、法律を変える必要は100%ある! 大切なことは、教育だ…。 生きていれば色々あるものだもの。 もちろんABCや123ばかりが教育じゃないし、 メタバースの時代、商機を左右する欲望の資本主義社会で 生き残る力だけが必要なのでもない。 全員がアクト、アクトレスで 自己顕示欲はSNSで十分すぎるほど育ったけれど、 自省する力が育っていないことが問題だし、 思いやりの心が全く無いとは言わないけれど、 それは自己中心的で軽薄短小(なんだか大昔はやった言葉)だ。 良くも悪くも自分勝手な個人主義だから、 マインドコントロールもされ易いのだね。 そして、ボランティアは決して献身な人の集まり などではないしね。 思いやりの心の基軸が共感にあるなんてことは絶対ない。 統一教会に賛同している人たちは当事者だから別にして、 ボランティアに参 加する側にも受ける側にも、 悲しいかな注意が必要だということ。 そもそも共感などでは悲しみの淵に沈む人を理解など出来やしないし、心の開放だってあるはずもない。 近頃、行政も市民団体もボランティアの世界に偽善を見る。 知らぬ素振りで 冷ややかに調子を合わせるようになった私がいる。 なんて悲しい世界だろう。 そうだね、ボランティアなんて枠にまとめなくても、 社会の中で譲り合いや思いやりの範囲で出来ることをするで十分だ。 何でもかんでも政府や行政は市民の誠意を利用し過ぎ。 そこにぶら下がって利益や利権を貪る団体もあるってこと。 世界の、一向落ち着かない諍いも然り、 一面だけだろうが、安部氏の銃撃事件から見えてきたものもある。 勿体なくも大切な時間を使ってしまったけれど、 経験と知識をプラスして、 裏切りにも強くなったし、 紛いもの(者)への対処にも賢くもなった。 ほんとうに色々学んだ。 「事実は小説より奇なり」 なんだか異常で奇妙な人間社会の中でね。 バイロンの名言が大当たりだ

事実は小説より奇なり②     

  コロナ禍に始めた手話だが、 発起人が曖昧なままLINEグループが立ち上がっていた。 そしてそこに、統一 教会の組織が網の目のように繋がっていたのだ。 資源を枯渇させるIUU( 沖アミ)漁法で、 根こそぎ献金奴隷(日本人)を捕獲ということことだろうか。 我が町にも○○協議会が牛耳るボランティアセンターたるものがある。 もしわたしが大学で原理研究会に参加し社会 活動をしていたら、 真っ先に○○協議会のボランティアセンターに繋がりを持つだろう。 そう考えると、この成り行きも 推して知るべしかな。 統一教会は 「原理研究会」という大学の学生サークルがあって、 地域に溶け込んだボランティアの活動を行っていたのだから、 至る所で接点、 ないしは統一教会が発起人のボランティアが そこいらにあっても 可笑しくは無いのだ。 本当に物腰が柔らかく、思えば猜疑心を抱くほどやさしい。 まだコミュニケーションも進んでないのに、 古き友人のように接触してくる。 サークルのLINEで積極的な誘いが繰り返された。 コロナ禍でイベント回数は多くなかったことと、 今思えば(幸いなことに)、どれも日程が合わずだったのだが。 以前記事にUPした イベント勧誘チラシのポスティングも奇妙ものだったが、 その手話サークルのLINEに流れたのが 「あなたの人生、無料で占います」というものだった。 手話と人生占いがどのようにマッチングするのだろう。 疑問がわいて調べてみた。 日本の女性を勧誘する 教会の 常套手段だと分かった。 このころ教会側は、 醜悪老夫婦の夢を実現する資金集めに翻弄していたのだ。 「老夫婦の歳を合わせて一人○○○万円の献金」の件だと思う。   若い男は、自身の頭脳明晰さに溺れやすい弱点を刺激され、 理解不能に設計された教義を解くことに夢中になるらしい、 そして、マインド・コントロールの泥沼に入る。 そして女は占いで釣られる(?)、 占いに弱い日本の女は無料占いに釣られて、 アダムとイヴの教義を聴き、 マインドコントロールの坩堝…? 日本の女は随分軽く見られているのだね。 何れにせよ、 それら宗教紛いのものに熱狂する信者の深層心理は 他者が持っていてずっとほしかったものを見つけ、 やっと購入した時の到達感が付随する満足感だ。 試合で勝った勝者の自己満足的高揚感や、 自分は救われるという身勝手な

事実は小説より奇なり①     

何がどうなってるの? わたしは女だけれど彼女たちの気持ちが理解できない。 ●●党を指示する女性は、党首を「あこがれの人なの」と 真顔で云う。 ■■党の運動員の女性も、やはり党首の大ファンなのだと云う。 二つの党は犬猿の仲らしい。 「思想信条の価値観に、あこがれ(ファン)って変じゃない」 と云うと、 二人からニュアンスはやや違うが 似たような返事が戻ってきた。 「そんなレベルのことではない。特別な人なのだ」 そんなレベルとどう違うというの!特別ってなんなの? 二人とも所謂「優しくまじめで、いい人」で括られる。 しかし、その心理はどうなっているのかと思うと、 有名人などの追っかけをする類の集団と変わらない。 盲目的心理状態であり、 コンサートに参加したら、 幾つ曲を購入したら…、 ・・さんと握手できますとか、サインがもらえますとか、 これもマインドコントロールの手法だ。 脅しか鞭か飴玉かの違いに過ぎない。 ただ、人間は多かれ少なかれ、大小や歪さはあっても、 何かにマインドコントロールされ、生きているのも確かかもだが…。 それにしても、統一教会の信者があの飛んでも八分の 老夫婦をして 「真のお父様・真のお母さま」と呼ぶのを呆れていた二人だけど、 彼女たちに統一教会の信者を 笑うことは出来ない 。 そこに気づかないのがマインドコントロールたる所以なのだからね。