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学ぶ力の背骨       

頭ん中に完成された知識が出来上がっている人に、 新たな知識を理解してもらうのは、かなり難儀だ。 「これはこうすると良いと思います」なんて言おうものなら、 「私は先生にこう習いました」 「間違ったこと言わないでください」ってね。 「いったい何処の先生なの」 口をついて出そうになるのを堪えた。 受け身の高齢の方は 「自分の身体の事なんかわからないから、先生じゃないと…」と、 100%それが正しいのだと、頑固で譲らない。 でもね、あなたの身体のことは先生じゃなくてさ、 自分自身が一番良く分かってる筈よ。そうじゃない…。 百歩曳いてもよ、自分自身で分かろうとしなければと思う。 医療従事者側だってなんだか勘違いが多いしさ。 「医師が向き合うのは病気じゃなく人だって習いました」 なんて言ってみても、 そんな器量のある医師などどこにいるのかと思うほどだ。 それは彼が亡くなった時にも重なる記憶だ。 ただ悲しいのは、 医者に信頼を寄せ、尊敬し特別な人だと思っているのは 知能指数が低い傾向にあるとするデータが 闊歩している現状があるということだ。 最も、医師の平均知能指数もそれほど高くはないそうだ…。 過去記事にダブル部分があるけれど、 去年の6月末、膝のお皿(膝蓋骨)を損傷したとき思った。 医者の中で確かな器量を持つ人はほとんどいないってね。 彼らは記憶力は良いかも知れなくても、 その知識は丸暗記に違いなくて、多分ね。 思考して、一人一人の患者を診てやしないのだ。 担当医はレントゲンの映像写真とにらめっこするだけ。 それで患者の何が分かると言うの? お隣の患者と同じに扱ってQOLが改良される筈などないんだから。 「ほら、パソコンばかり睨んでないで、こちら(患者)を見てよ!」 「もう少し心ある人間工学を学んでほしいんだから」 医療従事者として自身の技量を正統だて、 やたらミスを衝かれるのを恐れるように、 やたら防衛線を張る言葉が飛ぶ。 私は6日で病院を飛び出した。 もちろん私はリハビリに一切通わずに、 それでも半年も経たずに正座をし、階段を普通に上り下りしている。 この人たち(医療従事者)何もわかっちゃいないんだ。 それにしても、ちゃんと医学を学んできたのかな… そう訝しかった。 学ぶとは何だろう。学ぶ力とは何だろう。 思い出したのは『銀の匙*1の国語授業』だ。 学ぶ力の背骨です。 国

人生は思い通りにならないもの 

心痛むニュースが立て続けに飛び込んできたし、 右も左も報復報復って、 これって人間の限界でもあるんだろうな…。 こうしてあまりにも愚かな火種を抱え込むから、 こんな世の中なんてどうでもいいし…と、 匙を投げる。 そりゃね、 わたしごときが心痛めても、どうにかなるはずなど無いわけで、 ましてや投げる匙なんてありゃしないのだけど。 自由主義経済は、 垂れ流しの情報の中で生息するお化け(AI)を生み出したし、 金と権力は人間の欲望をしっかり掴んで放しゃしないだけのこと。 アダム・スミス の「神の見えざる手」がどうしたというの。 でもね、馬鹿にしないでよ‼‼‼そもそも神などいないんだから。 「我々が生活している経済社会の顕著な欠陥は、 完全雇用を提供することができないことと、 富および所得の恣意的で不公平な分配である」ってね ケインズは資本主義の問題点を指摘したらしいけど。 自由主義競争の「市場競争を優先させたほうが 経済は効率的に成長する ( フリードマン) 」 とした主張。 それに対し 、 宇沢弘文は効率重視の過度な市場競争は、 格差を拡大させ社会を不安定にすると言った。 そうだよね、ここんとこ私は宇沢に軍配だと思う。 政治と経済は切っても切り離せないから諸悪の根源はここんとこかな。 それにさ、身の回りを振り返れば、 悲しいほど小さな地域社会で生きる私たちだって、 「家族が健康で幸せなことが最優先よ。 可哀そうだけど…」 そう言いながら、 内孫じゃなく、 外孫の写真を嬉しそうに眺めているし。 家族内の子供や兄弟間の愛にも優劣があるくらいだから。 そうだね、○○ファースト、 グレートアゲインだって。 何だか勘違いしている某国の肩書いっぱいのボスたちや 枢軸国の大統領の領土意識も、 冊封体制だかしらないけれど、 隣近所の狭い世界に蠢く感情意識と何ら変わりはしないんだろうな。 政治は正にここから生まれてるんだ。 そう、「いい加減にしてよ」ってね、そう思い振り返れば、 これも宇宙資源をめぐる経済戦争の一端なのだろう なと思いつつ、 JZXAの成功に民族意識をくすぐられているわたしがいるし。 対して「世界初  月の裏面撮影に成功」というニュースには、 某国の技術革新にちょっぴり苦虫を嚙みつぶした心持の私が居たしね。 大人になれば、心は安定するもと思っていたけれど、その実は…だ。

結構な風  

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先週だ、6人の女がやって来た。 田舎じゃ忙しい盆暮れに、 一家の主婦が 気ままに飲み会…と、言う訳にはいかない。 だから我が家でランチを兼ねたお茶会みたいなものが始まった。 持ち寄った手料理やお菓子がテーブルに並ぶと 「美味しそう!」 「美味しそうじゃなくて、美味しいのよ」に始まって それぞれが腕自慢の解説に世話しなくなる。 空いた器を片付ける人が 私の前を右往左往と行き来する。 ひとしきり落ち着くと 「ブラジルでいい」だなんて言いながら 棚に鎮座する一番右のキャニスターを指さした。 この飾り瓶にブラジルが入ってるだなんて、何で知ってるの…? 勝手知ったる他人の…ではないのだが、 なんだかな~。 いつの間にかお湯が沸いて 、あっ~!食後の珈琲までもが… 「それはちょっと待て、珈琲は私が淹れるんだから!」 私は思わず声を上げた。 「この茶会、女主人は私だ。 なのに、何一つ私に出番がないなんて」 しかし、私の声は届かない。 気がつけば既に、カップは琥珀色を満たしていて、 ただ女たちはうるさく賑わしい。 何てこと…! とは言え、この賑わい、今までと違う美味しい風が吹いている。 食べるために忙しい時代があった。 あれは、よくある業界のゴタゴタに疲れ、 本業と副業が逆転したころだ。 人に会わずに暮らしたいと思った。 そんな私をふるさとは、何も聞かず迎えてくれた。 しかし、実家に父や母の姿が消え、わたしは客になる。 竹馬の友も、互いの暮らしの中で価値観がズレ、 馴れ馴れしく前の道路も渡れやしない。 そんな、どうすることもできない行き違いが起こるものらしい 。 そうしてふるさとは、時を境に知らない風が吹く。 あれもこれも嘘のように、時間も流されてしまった。   ふるさとは遠きにありて思ふもの   そして悲しくうたふもの   よしや   うらぶれて異土の乞食となるとても   帰るところにあるまじや・・・               /犀星 あの時を境に吹き始めた風は 「もう何もないよ…」と言っても勢いを落とすこともなかった。 まして 流された時間は戻ることもない。 けれど、 うるさく賑わしい6人の女が持ち込んだもの。 ふるさとにはこんな風もあるのだってこと。 そう、このごろ、少し心が緩んで、やっと気付いたということ。 そりゃね、毎日はしんどいけれど、こうした田舎の付き合いって なん

ヒジャブは着用したくない 

ヒジャブは着用したくないけれど… 私がパレスチナ人として生を享けていたら 市民不服従運動に加わっていただろうな… 『ハイファに戻って/太陽の男たち   』 ガッサーン カナファーニー 著/ 河出文庫(2017年6月) 訳者(黒田壽郎)がイスラム教徒だからと言うわけでもないが、私の知識不足が否めないからやや理解が難しい。PCを前にして検索サイトに首ったけで本を読む夜が明けた。 「ハイファに戻って」 は、イギリス軍により突如強制的に逐われたパレスチナの夫婦が、イスラエルの兵士となっていた愛しい我が子との再会の物語だ。 19世紀のシオニストは、そこへの「帰還」を切望していたパレスチナを「土地なき民のための民なき土地」と表した。 ゴールド・メイア(イスラエルの政治家、第5代首相)は、「パレスチナ人とはいったい誰の事か?」「そんなものは存在しないのだ」と嘯いた。そう、ネタニヤフが口にした「そもそもパレスチナ人などいない」と同じだ。 これこそ民族浄化を推進したナチス、君たちユダヤ人を迫害した時のナチスの言い分と同じなのだ。 1948年、連続で起きたシオニストたちによるパレスチナ人虐殺。 デイルヤーシン、アイン・エル ザイトゥーン、サラ・エル・デインの虐殺事件を検索しながら吐き気を覚えた。 デイルヤーシン村の虐殺事件は 「悲しいオレンジの実る土地」 として収録されている。そして、これらパレスチナ人虐殺事件の一か月後、イスラエルは国家樹立を宣言したのだ。 イギリスの二枚舌外交、シオニストから見返りに権益を保護するという約束を取り付けさっさと撤退。中東問題の火種にイギリスの責任は問われていないままでいいのだろうか。西側自由主義社会への幻想が浮き彫りにされる。 ましてドイツの体たらくは酷いもので、ナチズムの亡霊にがんじがらめで、正しい判断さえ出来やしない。ヒトラーの悪行の歴史は忘れていいものではないけれど、だからと言って、今リアルに起きているシオニストの悪行に対し、何も言えない現実をどのように考えているのだろう。そこに聡明な判断があるとは到底思えない。 また、イスラエルに自衛権があるなら、虐殺され土地(国)を追い出されたパレスチナの人々にも自衛権があることを知るべきだ。 著者であるガッサーン カナファーニーは、1972年7月、自動車に仕掛けられた爆弾で36の短い生涯を終えた。

ブッダとタゴール 

「人々は残酷だが 人は優しい」 / R abindranath・タゴール そうだね、「人々は残酷だが 人は優しい」 昔はね「うんうん」ってね、納得したものだ。 だけどこの頃、残酷さを示すのは人々ではなく、 ブッダの言う通り、そもそも 人は残酷で身勝手なのだと分かってきた。 つまり、人は優しいのじゃなくて 弱いだけのこと。 弱いがゆえに持つ渇愛と言う事実を直視し出来なくて、 それを「その弱さこそが人間ぽいんだよね」だなんて 砂糖をまぶした曖昧な言葉でカモフラージュする。 俗に言う仏教を創始したなどと露ほども思っていないブッダは、 欲望を中核とした人間観を持っていた。 つまり、人間の人格の中心にはやむにやまれぬ生存への執着があり、 それを中核として欲望が 網の目のようにのび、世界を形造っている。 この欲望によって世界像は歪んでいると言っているんだね。 つまり、人間存在の根本は渇愛があり、 そ れがつる草のように蔓延って人格を形成している。 彼はこの欲望から自己を自由に開放しなくちゃいけないなんてね。 「無執着」「無一物」という言葉が飛び交った。 つまるところ、 タゴールの 「人々は残酷だが 人は優しい」のではなく、 そもそも人は、自己浄化しなければならない妄執の汚れにまみれてるってことらしい。 簡単に言えば、哀しいほど美味しいものを食べたくて、 おしゃれな服を着たくて、 訳の分からない鉱物で身を飾って、 瀟洒な家に住みたくて、 あちこちを優雅に遊び廻りたくて、 他者を配下に置いたり自分の所有ぶつとしたくて、 世間に一目置かれ社会的権威や権力を持ちたくて… 時に「ささやかでいい」だなんて言ってみたりしながら、 あちこちに欲望の目を萌芽させて、 執着から逃れられず生きているってことかな。 だからだね、そこの執着から逃れられないから、 人間が持っている残酷さを同伴させる。 と言うより気付きもしないで あらゆる真実から逃げる。 時に某国みたいに神の意思だなんて理屈をつけたり、 身勝手な正義の御旗をたてたりしてね。 全て、それらの本質は君の中、人間そのものにあるのに… 「人間 とは何か?」とか、「人間の本質とは何か」などと 問いかけ、 哲学的な思考と実証的な調査で答えを出そうとすることなんて、 そもそも無理なのかも。 タゴール君、人と人々の残酷さの違いは、 みんな(人々・仲間)で

すさび   

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アロマワックスサシェを作った😊 ボランティアで月一回の「ハーブの遊び」を始めた。 一回目:ハーブサシェ(ラベンダーの匂い袋) 二回目:ハーブナチュラル化粧水(ラベンダー) 三回目:アロマワックスサシェ 四回目になる12月は、眠れないと言うメンバーの声を聞いて、 穏やかな眠りを誘うハーブティーをブレンドすることにした。 ①ジャーマンカモマイルとオレンジピール、そしてバレリアン。 ②パッションフラワーとレモンバーム。 材料だけど、カモマイルは我が家の庭から収穫したもの。 オレンジピールは糖分不使用のものをミカンで作る。 バレリアンとパッションフラワーはネット購入だけど仕方がない。 レモンバームは近くの農家の方から購入ものを乾燥させておいた。 パッションフラワーを観賞用として育てている庭を時々見かける。 ちょっと派手な花だから私好みではないが、 このハーブ、数世紀にわたり緊張や不眠の治療薬に使用されてきているのだ。 育ててみるかな… さて、お茶菓子には淡雪の様なメレンゲをこさえて持って行く。
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ハイファに戻って/太陽の男たち   (河出文庫) 文庫 – 2017/6/6 ガッサーン カナファーニー (Ghassan Kanafani )(著) 黒田 寿郎 (翻訳)