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灯油一缶と帰宅 

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昨年、友人の家で石油ストーブの上にお湯が沸くのを見た。 灯油を燃焼すると大量の水蒸気が放出されるけれど、 そこのとこは室温が上がれば飽和量も増えるから、 どれくらい湿度が適切になってくれるかは分からないものだけれど、 加湿器から放出される水蒸気は味気ないものだなって思った。 我が家の暖房は電気で補っている。 パネルヒーターやオイルヒーターは立ち上がりが悪いし 強風でエアコンも使って、遠赤ヒーターも使う。 乾燥がつらいから加湿器を使って45〜55%を何とかキープ。 誰だか 「銀杏はね雄雌があって、雌は40個に一つしかないんだ。 一妻多夫の世界なんだね」といいながら、 石油ストーブの上で銀杏を焼いていた。 私は思い切って石油ストーブを購入したのだけれど、 肝心の灯油が無いのに気が付いて、 近くのホームセンターに走った。 ホームセンターの前には「早咲きのチューリップ」が芽を出していた。 手が伸びそうになったけれど、 人間のエゴで冷蔵庫に長期閉じ込め、低温処理をして 花を咲かせるのも何故か切なくて、 おやゆび姫を育んだ花はチューリップだったよね。 雪の中じゃおやゆび姫も寒かろう…。 チューリップは諦めて、灯油一缶と帰宅した。 さて、 ストーブの上で銀杏を焼く。  

秋のねざめ           

  この秋は 帰り来なむと    朝鳥の  音づれぬれば    さ牡鹿の  朝臥す野辺の    秋萩の はぎの初花    咲きしより  今か今かと    立ち待てば  雲居に見ゆる    雁がねも いや遠ざかり    行くなへに 山の紅葉は    散りすぎぬ  もみぢは過ぎぬ    今更に 君帰らめや    ふる里の 荒れたる宿に    ひとり我が 有りがてぬれば    玉だすき かけて忍びて    夕星の  か行きかく行き    さす竹の 君もや逢ふと    わけ行きて かへり見すれば    五百重山  千重に雪降り    棚曇り 袖さへひぢて    慰むる 心はなしに    からにしき  立ち帰り来て    草の庵に わびつつぞ居る    逢う由を無み    大愚良寛

不完全な美  

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ゲームの公平な利益分配を考えていて 発見された といわれる三角形がある。 パスカルの名前がついているけれど、 何世紀も前の学者たちも研究していた不思議な三角形だ。 三角形そのものは単純な構成で成り立っている。 一つの数は、その上段両サイドの2つの数の和で導かれる。 例えば中央の縦のライン1・2・6・20を着目すると、 その上段の両サイドの数字、 2ならその上段の1と1、 6ならその上段の3と3、 20ならその上段の10と10 を足した数字になっている。 これを繰り返し、 パスカルの三角形は左右対称のすそ野を広げてゆく。 1 1 1 1 2 1 1  3 3 1 1 4 6 4 1 1 5 10 10 5 1 1 6 15 20 15 6 1 1 7 21 35 35 21 7 1 パスカルの三角形 それだけのことだが、 ここに美しいと言われる数列 [*1] が偶然重なっていた。 空間プランの仕事をしていたころ、 意識的にであれ無意識的にであれ、 お世話になったバランサーたちが パスカルの 三角関係に隠れていたのだ。 美しいバランサーは他に「 白銀比」というものがある。 その一つはルート長方形、 日本では別名「大和比」 と呼ばれているものだ。 この1:√2のバランスはとても日本人好みなのだそうだ。 中国やヨーロッパ文化のバランスから抜け出した 日本独自の美意識に通じるらしい。 そこのとこの想像力や着眼力は 欧米にない日本独自のセンスがあるように思う^^ 日本独自のセンスを例えてみると、 幾何学的左右対称のフランス庭園と異なり、 自然に調和した日本庭園の美や、 左右非対称の阿吽像や京都御所の桜と橘もそうだが、 日本で生まれた左右非対称の伽藍配置だ。 日本陶芸茶碗の形状などに見られる「不完全な美」 と言えば分かりやすいかも。 もっとも価格を釣り上げる骨董趣味の収集家というセンスじゃなく。 この作品は不完全すぎますけれど^^ それはさておき、ふと気が付いたことがある。 学者たちが完ぺきの美を求めた「神の数式」。 数式は 美しさに導かれると 重さがゼロになるという矛盾にぶつかった。 重さがゼロと言うことは、すべての物質が飛び出してしまい、 理論上、この世界の全ては無になり 存在することができないことになるらしい。 それを解決したのが日本の南部陽一郎氏。 彼は「完ぺきの美は壊れ

ゾウの時間  

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去年のテキストのつづきです。 私たちは教育の中で、 時間を絶対的な単位で捉える物理学を学んだ…? 多分。 だから、あなたも私も世界中の人が、各々 生きている時間が どんなに違うかもしれないなんて疑うことなく生きている。 そう、一分、一秒を同じように刻んで生きていると思っている。 そして同じように、そこに存在していると思っている。 ガリレオは邪魔するもの(空気抵抗の力学)が無ければ、 鉄の塊も鳥の羽も同じ速度で落下するといったのだけれど、 何年前だったか、 『 ゾウの時間ネズミの時間 』 という本を読んで、 私はゾウの時間を生きているかもと思ったのだ。 つまりこうだ(理解力が未熟かな^^)。 一分一秒が同じように流れていると思うのは人間が決めた事であって、 他の動物にはそれぞれ違う時間が流れているというのだ。 ゾウもネズミも一生の間に打つ脈の総数はほぼ同じで、 ゾウは70年ほど生きるが、脈拍数はネズミの寿命と同じ15億回。 ゾウもネズミもそれぞれの一拍を時間の単位として捉えれば、 ゾウもネズミも同じ年齢の一生を生きたことになる。 そこから導き出され、理論づけられていたのが、 サイズによって時間の感じ方が違うのではということだ。 ゾウとネズミでは体重が 10 万倍違い、時間は 18 倍違うだろうから、 ゾウはネズミに比べ時間が 18 倍ゆっくり流れているということになるらしい。 時間の流れる速さの感じ方が違うと言うことは、 機敏に動くネズミはゾウにとって目にも止まらない速さに映り、 ゾウはネズミにとって、微動だにしていないように映る。 だから、ゾウとネズミをとても高いところから落とすと、 邪魔するものが無ければ同じ速度で落下することになるから、 ネズミが感じる落ちてゆく時間はゆっくりで、 ゾウが感じる落ちていく時間はあっという間だというのだ。 落ちていくという同じ条件下の時間の中で、 ネズミにはゆっくりと時間が流れる。落ちながらネズミは死を哲学するかもしれない。 しかし、ゾウの時間には考える余裕などない、 落ちていく自分を認識することなくアッという間に落下を終える。 私はゾウよりとても小さいけれど、本当に鈍くて抜けたところがあって、 そうか、ゾウの時間を生きているのだと、 そのとき思った。 さて、母の三つの教えは四六時中こころにあったわけではない。 必ずしも高尚な生命体

三つの教え        

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満たされないものがあるってね。 何がでなく、誰がでもなく、 時間の存在を信頼するからこそ、 人を愛する幸せが当たり前のこととして生きてきた。 なのに…何かが違う、 何が間違っているのかと、コロコロ鳴る空洞の頭で考えた。 そう、そもそも時間など存在しないのかも知れないのだから。 もしそうだとしたら、この世界の全ては実体などないと言うことになる。 それは、死ぬときにしか理解できないかも知れなくて、 死は、存在の実体を理解する最後の機会と言えるかもしれない^^                    若者の定義は様々あって、何だかなぁと思うけれど、 現在、政府(?)が定義する若者は39歳までだそうだ。 日本人が大人になれないのも、こんな定義からかも知れない^^。 子供を産むことができる肉体的条件がとうの昔に揃い、 家庭を持ち、次代を育てる責任が想定できる年代が若者に含まれる? なんだか日本はとてもダサイものを抱えているようだ。 田舎の高齢者は「この年じゃ…」の言葉に絡まれて、 オシャレしたくても表向きは必要以上に地味だ。 じゃあ、若い世代はといえば、真逆に飛びぬけて子供っぽい。 全ての人がと言うことじゃないけれど。 「日本の文化で一番自慢できるものは何ですか」という質問に、 「アニメ」と答える文化からきているのじゃないかと思う。 そうなのね、今日本が一番誇れる文化はアニメなんだ…、 私の気分は下降する…、私だけかな? 確かにアニメは日本の経済を動かしているようだし。 泣く子と中国とアニメに勝てないのは 日本の政治経済であり大人たちだ。 大企業も市区町村も、あれもこれもアニメキャラクターを設定すると、 それは全てが手足の長いアフリカ系の腰高スタイルを持ち、 ヘアスタイルとファッションのデザインが異なるだけで、 目のやたら大きな、髪に半分隠れた小顔はみんな同じ顔をしている。 差別をしてはいけない常識とやらが闊歩するからだろうか、 それにしてもみんな、お人形の顔立ちでスタイルも抜群。 大人の文化圏(海外)では 幼児期から抜けていない国だから、恐るるに足らずの指数になっても、 切磋琢磨する相手としての文化指数は低いんじゃないかと思うけれど…。 縮小したと言えど、東京オリンピックの企画センスは悪い。 儲けることしか考えないセンスの悪い電通に丸投げしたからだと思うけれど、 政治家のセン

ハーブ畑より 

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僕のために、 僕を愛してくれているひとり人の女性がいる。  真面目な話、こんな救いは無い。          デビット・ボウイ 時間を見つけて少しお掃除だ。 年末の大掃除をするつもりはないのだけど、 なぜかいつもよりいろいろ気になってしまう^^ 久しぶりの朝、チーズを焼いて熱い珈琲にした。 お掃除をたっぷりやった気分でひと休みに、 畑(…庭?)で収穫したカモミールでミルクティーを淹れる。 冷たいバケツの水に感覚が鈍る手も温まる。 テーブルに甘い香りが漂うと、ホッとする。 種を蒔かなくても、カモミールは毎年顔を出してくれる。 真面目な話、こんな穏やかな救いっていいものだと思う。

忘却     

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灰色雲のかかる空、寒さもひとしお。 恒例の友人の舞台を観て、ついでに熊谷守一展を覗いた。 約束のお店に辿り着いた時は 白い雪(?)が舞い始めていているようで(そんなはずないんだけど…) そうか、頭の中で降るは雪か、それとも雨か? う~ん、ゆっくり飲めばいいいいかと、良きに計らって ついつい久しぶりのお酒を聞こし召した。 少しばかりなのによく飲んだ気分になるのは年の所為かな。 気分で飲んで、ついでにほろ酔い衝動も気分だ。 「送っていこうか」と言う友を「大丈夫よ」と置き去りにしタクシーを拾う。 いつもの道の対岸をタクシーに揺られ、脳みそも揺られ家路を急ぐ。 「いつもの道と違うかも…でもこのまま行ってください」 と、なんだか意味不明なことを呟いていた。 川の向こう岸、道路際にポツンと古い宿が一軒あって だいだいいろのあかりが幾つか灯る。 けむる対岸かわたしの脳みそか、おぼろに幻想的だ。 東北の雪深い町で見た記憶が想起されると 原因不明な嫌悪に過ぎた時間も、冷たい雪に気が滅入った日々も あれもこれも、みんなそういうものと思えてくる。 記憶の中を歩いても人っ子一人見当たらない。 みんなは元気に暮らしているだろうか? どの鏡の後ろにも 永遠の静けさが一つずつ それから飛び去らなかった 沈黙たちの巣が一つずつ Lorca みんな、音もたてず眠っているのだろう。 霧の中で誰も見えないのは初めから誰もいなかったからか? 否、夜だからだ^^ それとも誰しも人は一人であることを教えられたからか? 否、一人に慣れて、全て忘れてしまったからだ。 タクシーはゆっくりゆっくり夜を走る。 「着きましたよ。1,320円いただきます」 かなりの時間が過ぎていったような気がしたけれど タクシー料金は十数分ほどのメータしか走っていなかった。 夜の時間にはきっと狐か狸が住んでいるのだと思った。 こころも頭もオメメもすこしばかりくらくら。 書きたいことがあったのに 何だかどうでもいいことかもしれないと却下。 一つずつ一つずつ折りたたんで片付けるしかないんだから。 こうして少しずつ、遠くになってゆくのかも知れない。 そう、人間は忘却の生き物だ。