シナントロープ



   白鳥が飛来すると東北の冬も本番を迎える。

わたしはいっぱい着込んで、しばしば近くの沼まで出かけた。
沼のほとりには小さな小屋があって、そこにパンの耳が置かれていた。
「ご自由にお取りください」
そんな手書きの看板が扉のノブに掛けられていたと思う。
わたしは沼の畔にしゃがみ、パンをのせた手のひらを白鳥に差し出しだす。
白鳥はくちばしを上手に滑らせパンを受けとる。
そして水面にくちばしをちょこっとつける。パンを湿らせていたのだろうか。
「白鳥は警戒心が強いから人間の手から餌を受け取らないよ」
そう周りは言ったけれど、そんなことはなかった。
行動に何の疑問も持たず、こころはちょっと自慢げだった。


あのころ観光の目玉にもなっていた白鳥の餌付け風景を支えたのは、
全国から届けられる食パンの耳、雑穀、ワレ米などだったらしい。
しかしいつ頃からか自然動物と人間の境界が問題になって、
人間の食べ物は与えてはいけないってね、常識とやらが問われ始めた。
そして希少動物は特別で人間の手が差し伸べられても、
同じ生態系の問題だといって、増えすぎる動物は殺傷された。
そんな流れの中で白鳥の飛来地も餌付けを止めたんだね。
でもね、田んぼに飛来する白鳥は稲の落穂をすくいながら食べていた。
そう落穂ひろいなんだ。これって間接餌付けではあるよね。

今じゃ自然界の動物は
人間の領域に無断で入り込んで畑を荒らす害獣になるし、それだけじゃなくて、
病原菌をまき散らすことがクローズアップされている。
確かにね自然界はマラリア、コレラ、チフス、鳥インフルやコロナウイルス等々…
危険はいっぱいだ。だから自然界の動物に餌を与えたり近寄ってはいけないてね。
しかしどこか変だという気がする。


「シナントロープ(ギリシャ語)」という言葉がある。
つまり、人間が活動する周辺でその恩恵を受けて共生する動植物を指す言葉だ。
もう長い歴史の中で、人間と共存して恩恵を受けて生きる動物たちがいるってこと。
人間が豊かさを求め自然を開発し破壊したんだし、勝手に品種改良された愛玩動物も多いし、
住処を追われただろうね。彼らはやっとのこと人間の周辺環境に慣れ、そこに共生する。
きっと不要な者たち扱いのネズミとかスズメとかも、そうだったのだろうね。
最近の話じゃなくてローマ時代からのこと。そう、そこには長い共存の歴史があるんだ。
人間は勝手だからね、自然を開発し破壊。不要な動植物を消し去る。
森や原野を田んぼや畑などの農地にして焼き畑をしたり、
豊かさを求めて家畜や魚を養殖したり、森林伐採をしてゴルフ場を造ったり、
レジャーランドを開発したり、自然を破壊してきたのに…。

君たちがよだれを流し目を細める、テーブルのステーキになる牛、
彼らが牛舎で繰り返すゲップもね、地球温暖化に最悪なメタンガスなんだ。
外来種は駆除しろとか、生命体の上位に立って命の選択だなんて、
コロナ禍の医師会や馬鹿な医者達と同じで、無知な愚か者となんら変わりはしない。
医師会や分科会の・・会長のが正しいだなんてこれっぽっちも思えないし、
お金をもらって君たちは、私の脳みそでも口にできることしか言わなかったよね。
只ふんぞり返って、黄色い嘴の老若男女の声援を受ける「お山の大将」だ。

自然を破壊して、多くの命を排除してきたのに、

生態系が崩れるからといって外来種は駆除しろだなんて、
生命体の上位に立って命を司るんだから。
ましてや殺生だと騒ぐ、一見人道派の言い分にはちっとの愛も感じやしない。
あちこちで駆除した動物を食べてあげようだなんて文化が持て囃されているし、
「大切な命だから食べてあげよう…」だなんて言ってくれるじゃない。
これも環境問題だって、サスティナブルだって、ESGだって、SDGsだって…
インテリジェンスな言葉がいっぱいこじつけられたあんたの慈悲など要らない。
どれもが人間の思い上がりに生まれたくだらない言い訳文化なんだから。



ローマ時代の「シナントロープ」という言葉。
人間が暮らす周辺に、生きる場所を求め集まってくる動物も含め、
この世界すべての命が、
自然界の生態系に組み込まれていることを示唆していると思いたいのだが、
あれもこれも何と愚かな文化だろう…。



コメント

あきのの さんの投稿…
コメント:Akigasumiさん
ローマ時代の昔から人間の本質は変わっていないしこれからもそうなんでしょう。 最近はなんでもSDGsという単語でくくられて高齢者は戸惑うばかり。 個人のモラルの中で人生を終えるしか無いのかも?

返信:あきのの
おはようごさいます。 深夜に友人との久しぶりの長電話。 彼女はコロナ禍、会社に行くが怖かったと言っていました。 若い人ばかりではないでしょうけれど、モラルも希薄になり、色々あったようです。 そうですね、リアリティなくSDGsは社会の中で流行語のように使われていますね。 「ばえる」とかみたいに^^ けれどいづれ、同じように陳腐化していくのでしょう。 COP26もそれぞれの国の代表がこの時とばかりに 自己満足のパフォーマンスを見せるハレ舞台に過ぎないし、岸田総理も揶揄されてましたね。 ブログ引っ越します。引っ越し完了したらそちらのブログにコメント残します。