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お財布をはたいて傘を買いに行く

大切なものは目では見えないよ、心で探さないとね。 現実、人間の目で見ることのできる世界には限界があって 次元を超えて多次元をみることもできないのだけれど 人のこころも同じだ。 見ることができない世界ってかなり多い。      確かにね君が言うように「心で探さなくちゃ。。。」だけど、 心の目が大切だなんて、今の自由・民主主義の時代は ナーバスなことなど言っていられないらしい。 政治経済に疎い私のレベルでも 最近の世界はどこに行こうとしているのか疑問に思うことが多い。 経済は責任の伴わない自由と資本主義のなかで 蠢く怪物みたいなものを感じるしね。 過去記事で書いたことがダブルのだけど。 『欲望の資本主義特別編―欲望の貨幣論』を見た。 50分(?)×2本だから、疲れちゃって 右から左へとほとんどが抜けていっちゃった。 けれどその中から 言葉を幾つかピックアップしてみた。 ●「人の欲望は非効率的で贅沢を思考する」ということ。 資本システムの中では ●「所有の量に比例して欲望は膨張する」 ●「満足しない欲望は蓄積を生む」 ●「蓄積と自由は格差を生んだ」てなこと言っていたような。 スミスの「神の手」も幻覚だし。 もち私を含めて 大衆は自身のコントロールさえGAFA頼みなのは確かだしね。 大衆が委縮して、個人の価値感を 見失ていったのとGAFAの巨大化は反比例だ。 もちろん、大衆は委縮したなんて思ってないし、 多分自分がヒーロー&ヒロインでいられるSNSで 自分自身は○○ファーストで特別だって感覚に陥ってるよね、 自身の目的すら自分で決められなくなったのも コントロールされている事すら気付かないのも 逞しい大衆の常なんだろうな。 でも、もうどうすることも出来やしない。 これでフェイスブックの仮想通貨「Libra」が現実になって 新しい金融界を創出し支配する時代には 数パーセントの権力者(ハラリ氏のいうホモ・ゼウスかな?)に 世界経済が支配されるんだろうな。 大衆がGAFAを熱狂的に支えているんだからしかたないかも。 それもほとんどの大衆は気付くことも無いままだからね…。 イイネ集めて高揚し、短い命の商機も夢

その理由

「人間は死ぬことが出来るから」がその理由だった。 『人造人間の“私”』  世界のドキュメント 出かける準備をしながらのながらテレビに加え、 部分的な視聴だから番組の全体は見えていなかったのだけれど^^ 聴覚は音を受け入れる態勢にない状態で 「ロボットと人間は違うか?」AIロボットが少年に質問する声を拾った。 少年は考える間をおいて「違う」と答える。 この微妙な「間」に、少年は何を考えたのだろうか? 「人間は100歳まで生きられる」と少年が言うと、 「ロボットはスイッチを切るまで永遠に生きられる」とAIロボットが答える。 映画 『アンドリューNDR114』 がリアルっぽく甦る。 そんなやり取りの後、 「ロボットと人間どちらがいい?」AIロボットは聞いたと思う。 アンドリューは人間の女性と恋に落ち結婚した…のだけれど、 少年は「人間がいい」、意外にもあっさりと答えた。 けれど驚いたのは、「人間がいい」の言葉に衝いて出た       その理由だった。   「人間は死ぬことが出来るから」 注視したモニターの映像は一瞬に過ぎ、 少年がどんな表情でその言葉を口にしたか認識できなくて、 多分、無表情だっただろうな…。 少年の知的レベルはかなり高いかもしれない… 同じ年齢を想定したら、私なんかじゃ、 人間を選んだ理由にこの言葉が飛び出すなんてありえない。 思えば少年の年齢よりずっと後のことだ、 「人間は死ぬ」ということを意識して 手にした最初の書籍が 『高瀬舟』 だった。 鴎外は「高瀬舟縁起」の中で、「高瀬舟」のテーマは、 安楽死であると明言していた。 あれからどれくらい月日が流れたかな。 どこへ行くのでもなく車を走らせ、 こうして生きていることも不思議なほど くたびれていた精神状態のとき、 偶然ラジオから流れてきたのは    私は生きようとする命に囲まれた   生きようとする一つの命である            Schweitzer 私はテレビを切って外に出た。 カギを掛け忘れそうになる…(*´v゚*)ゞ、

白い鳥と黒い鳥                

きっと空梅雨ね、そう思っていたのですが、 六月も終盤になり、遅れて栗花落(ついり)です。 今日、スーパーのレジを済ませていると レジ横で少年(小学校の上級?)が私をじっと見ているのです。 恋人にするには…だしな、って思いながらにっこり微笑むと 恥ずかしそうに微笑み返してきました^^ 子供なのになんて素敵な笑顔をするのかなってね、 そう、いわゆるとても美しい少年です。 キャッシャーの方に支払いをしようと振り向くと、 彼女も私と少年の笑顔だけのコミュニケーションに 顔をほころばせているのです。 だからと言ってお買い物は安くなりませんでしたけれど(*^ー^*) ふと思い出したのが『白い鳥と黒い鳥のお話』です。 僕は子供のころ、そう教えられてきたんだ。 僕の生まれた国(アフリカ)のお話なのだけど…、 そう前置きをして彼は話し始めました。 人の心には小さな白い巣と黒い巣があってね 白い巣には白い鳥が棲んでいて もう一つの黒い巣には黒い鳥が棲んでいるんだ。 例えば僕が、相手を騙してやろうとしたら 僕の心のなかの黒い巣から黒い鳥が飛び立っていく。 もしも相手の黒い巣が空いていたら 僕の黒い鳥は相手の心の中の黒い巣に入り込む。 だけど、相手が誰も騙そうと思っていなければ 相手の心の黒い鳥の巣は塞がっているから 僕の黒い鳥は僕の心の黒い巣に帰ってくるしかないんだ。 だから僕の相手を騙してやろうとする心(黒い鳥)は 相手に何の弊害も与えることができないということなんだ。 反対にね、僕が人にやさしくしてあげようとする時は 僕の白い巣から白い鳥が飛んで行く。 もしもその人が、誰かにやさしくしていたらその人の白い巣の白い鳥は 誰かの白い巣へ飛んで行っているわけだから白い巣は空になっている。 だからね、僕のやさしさがその人の空いている白い巣を埋めてあげられる。 そうしたら、僕の空いた白い巣にも どこからかやさしい白い鳥が飛んできてくれるってこと。 やさしい白い鳥、きっと飛んでいたのですね^^

抹殺された伝承

どちらかと言えば少しどころではなく、至る所が折れている。 そうして何度目かの飛騨金山にふらっと出かけた。 一人通るのがやっとの細い路地も変わることなくある。 隠れるように残るベンガラの赤、 網代張りの戸袋に下見板張りの壁が美しい。 他人事のように言えば異論もあるだろうけれど地味な町。 たいした知識などなく、知ったかぶりを許してね…だけど^^ 『日本書紀』で、皇命に逆らう賊とされた両面宿儺の伝説がここに眠る。 『日本書紀』は 両面宿儺を、皇命に従わず、人民から略奪を楽しんでいる鬼人として 和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した、と語る。 けれど町の伝承資料には異伝があると記している。 その抹殺された異伝がささやく。 両面宿儺は出波平から金山の小山に飛来し、37日間大陀羅尼を唱え、 国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った…。 村人たちは、宿儺が飛来した山を鎮守山として観音堂を建て祭った。 歴史も文化もその多くは時の勝者のもの。 集客に精を出す観光文化のほとんどもそれら勝者の歴史を称え、 FB(SNS)が大衆を侵略するように地域にプライドも醸成するのだけれど…。 けれどこの町に残る宿儺の物語は 例えば明智の子孫がひっそりと首塚を守ったみたいに その成り立ち故に秘め事のように祭られたのかもしれない? そんなところが少し特異な様相をみせるから惹かれる。 秘密の道のようにある小山の段々をのぼり、観音堂を訪ねた。 どの様な今がこの観音堂に繋がっているかは分からないけれど、 今は覆いつくす夏草に守られて佇む。 ここに風に乗って飛来したのかと思うと、 何となくむせる風も心地よい^^ 実は、この町以外の旧飛騨街道沿いにも 皇命に逆らった賊(両面宿儺)の様々な伝承が残されている。 それらも『日本書紀』と異なるものが多く、 そこには抹殺された飛騨の歴史の謎があるのかもと、想像も膨らむ。 <font color="gray">『<strong>安吾の新日本地理 飛騨・高山の抹殺 ―中部の巻―</strong>』 坂口安吾の著</font> なんとなくおもしろい考察かも! さて、流行り病に折れたなにかがしも両面

男と女

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茶館で知らない人が声を掛けてきた。 残念だけど…、女性だった(*´v゚*)ゞ 月に一度、仕事の合間に町までお茶をしに来るのだそう。 「私ミーハーなの、後藤久美子が好きでマタ・ハリが好きで、ゾルゲが好きなの」 確かにミーハーと言うか、脈絡がないところがミーハーと言うか、 そうじゃなくて、ミーハーどころか個性的。 そんな彼女の話に頷きながら、私の脳みそはその場を飛んでいた。 あれはちょい前のこと、、、 某TV局のドキュメンタリー。 さほど興味もなく見るつもりはなかったのだけれど 何気にTVのスイッチを入れたとき 偶然流れてきた言葉に前頭前野のスイッチが入った。 「彼女は男と女の友情が必要な年代になっていた…」 男と女の友情が必要な年代って何を意味するの? 何だかとても引っ掛かる言葉だ。 そのドキュメンタリー、主人公は美貌のスパイ、マタ・ハリ。 引っ掛かった言葉を個人的に理解すれば <font color="gray">  時は残酷だ、美貌の衰えに従って女を卒業し、   男へのアプローチを変えなければ男友達すら(この“すら”って気になる助詞だ~)失う。   マタ・ハリは、年を重ねた女の惨めさギリギリの年齢になっていた…。 </font> ということらしい。 伝記研究者(?)の弁は追い打ちをかける。   <font color="gray">彼女はまだ若いと言われる年代で死んでよかったのだ。   死刑が決行された時、マタ・ハリが60歳になっていたとしたら   女のプライド惨めに砕かれ、まして後世に語られることなどもなかった。</font> 言ってくれるじゃない。 そりゃ高い比率で、男は若い女しか興味ないのも事実かもだけど。 当時、若いマタ・ハリを持て囃し遊んだ男たち、 美貌の時を過ぎようとしている彼女の苦境に手を差し伸べないなんて…。 マタ・ハリ自身、美貌の衰えを受け入れることが困難だったのだろうとも思うけれど。 とは言え、一度は愛した(仮に遊びでも)女一人さえ 誰も引き受けなかったことに、男の無情と度量の狭さを感じるのは私だけだろうか…(? そんな男しか見極められなかった

恋の辻占

ここに居を移して1~2年頃でした。 法被姿の地下足袋という出で立ちで リヤカーを引くお豆腐屋さんを見かけたことがあります。 一度っきりです^^ 先週の土曜のお昼のこと こころもち遠慮気味なお豆腐屋さんの笛が聞こえました。 もしや…、と思ったのですが姿はありませんでした。 お味噌汁が朝餉のメニューに登る回数も減り、 お豆腐はマーケットで買うものになったこの頃、 この町においても引き売りの音は珍しくなりました。 多くの地方都市においての開発がそうであったように、 ドーナツ現象に拡散された暮らしの機能はやがてほころびを見せ、 20~30年の時の流れに日中の騒めきが影を潜めても、 今だ共働きの町はシャッター通りさながらです。 一度、「ロバのパン屋さん」の音楽が 右から左へ通り過ぎていきました。 豊かさって何だろと、ふと思うのです。 走馬灯に思い出すのは子供の頃。 竿にスイカ、金魚に紙芝居などなど、 色々な音が聞こえた気がします。 中でもお豆腐屋さんの辻売りの声は 早朝にあってそれは一日の始まり、 夕暮れにあってそれは一日の終わり。 そこにあったのは家族の暮らしでした。 そう言えばお正月限定の おみくじ入りの辻占(つじうら)と言うお菓子、 子供の頃おみやげによく頂きました。 今は届く当てもなく、私も買いそびれたままですが 辻占とはその昔、夕方の辻に立ち占うというものらしく 夕占(ゆうけ)ともいっていたようです。 辻占そのものはかなり古い歴史を持ち 縁起を担いだり、恋の成就を楽しむ粋な文化だったのですね。 江戸時代には、おみくじを引き売りする姿に引き継がれ、 明治・大正時代には「淡路島通う千鳥の恋の辻うら」と 幼い掛け声も聞かれたようです。 目まぐるしく変貌した歴史の片隅に 喜怒哀楽を生きた人々の涙や笑は 防虫剤 の臭い が沁みる博物館に鎮座し、 「恋の辻占」の御籤を楽しんだ私の時間は 目覚めることのない記憶をねぐらにしたようです。

プレゼントに選んだ二冊の本

いつごろの事だったのか 「大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」と聞いたら 首を傾けて「うん、いいよ」と頷いた きっと、困り果てていただろう君へ (*^ ー ^*) お別れのプレゼントに選んだ二冊の本。   『 数学は世界を変える 』 リリアン・ R ・リーバー著 トーテム・ポールの最上階には 現代芸術家と純粋数学者が 屋根裏部屋をシェアーしながら住んでいるらしい。                     科学は非道徳的ではなく 私たちに哲学を与えてくれる。 数学は私たち人間が生きていく上で 良きバイブルだっていっているようだけど… 宇宙科学の某 TV 番組で ダークマターを研究してる教授が言っていた。 「私たちの研究が今すぐ人類に有効かと言えば、そうではないでしょう。 しかしそれは、私たち人間が生きていくのに大切な哲学なのです」          考えれば 数学の世界と哲学の世界は、お友達として古い歴史があった。 だから…、頷ける^^ アメリカでは 1942 年に刊行されていた。 とても短くて詩的な言葉で書いてあるから 数学嫌いでもさらっと読めてしまう^^    だからと言う訳じゃないけれど    今日の朝ごぱんはさらっさらっとお茶漬け^^ 『 フラットランド 多次元の冒険 』 エドウィン・アボット・アボット著 今住んでいるこの空間のあれこれも 私たちの頭の中では立体の筈なのだけど 人間の認知は再構築されて意識されるから厄介? 君がパステルで描いた世界も、驚きのキュビズムだったね^^   池の鯉が横なって泳いだり 楕円に見えてるはずのテーブルも あれは円テーブルだと君の頭は認知して、再構築して描いてた。 本来、イメージが再構築される時 視覚の恒常性が邪魔…、じゃなくて働いてくれているから 私たちは日常活動を維持できているのだけどね。 そして、やがて君の伸びやかな画は 恒常性を「知」として受け入れていくだろう。 ちょっぴり残念だけど。。。 だからというのでもないけれど 君の中に棲んでいて、居眠りを始めたピカソやブ